マズローのピラミッドが、マズロー本人の描いたものではないと知ったとき、自分が何を知っていたのかが、わからなくなりました。

知識と科学マズローのピラミッドは、本当にマズローが描いたのか?原著と成立史、実証研究から考える、よく知られた理論の受け取り方。

私は五つの欲求の名称を知っていました。ピラミッドの順番も覚えていました。しかし、誰が図をつくったのかは知りませんでした。原著に書かれている内容や、実証研究によって支持されている範囲についても、十分には理解していませんでした。では、それまで私はマズローの理論を知っていたのでしょうか。それとも、知っていると思っていただけなのでしょうか。

仕事でも、似たことが起こります。例えば、ある企業が広告施策によって売上を20%増加させると予測し、実際に売上が20%伸びたとします。担当者は、過去のデータや顧客調査をもとに予測していました。しかし、広告を実施した時期に、競合企業が商品の供給を停止していたことが後からわかったとします。その場合、売上が伸びたことを、広告だけの効果として説明することはできません。

根拠があり、結果も正しかった。それでも「知っていた」とは言えないことがあるのでしょうか。

今回は、知識とは何かを考えてきたプラトン、デカルト、そしてエドマンド・ゲティアの議論に触れながら、この問いについて考えたいと思います。

「知っている」とは、どういう状態なのか

この問いは、哲学の「認識論」と関係しています。認識論では、何を知識と呼ぶのか、私たちの信念はどのように正当化されるのか、どこまで確実なことを知り得るのかといった問題が扱われます。

プラトンの『テアイテトス』

古代ギリシャの哲学者プラトンは、対話篇『テアイテトス』で、知識とは何かを検討しました。この対話篇では、知識が知覚なのか、真なる判断なのか、説明を伴う真なる判断なのかといった可能性が議論されます。ただし、対話はすべての問題を解決する完成された定義には到達しません。

後世の認識論では、知識についての古典的な分析として、「正当化された真なる信念」という考え方が論じられてきました。英語ではJustified True Belief、略してJTBと呼ばれます。この分析では、ある人が何かを知っているというために、三つの条件を考えます。一つ目は、その人がその内容を信じていること。二つ目は、その内容が実際に真であること。三つ目は、その内容を信じるための適切な根拠があることです。

例えば、ある人が「明日は雨が降る」と考えたとします。何の根拠もなく、単に勘でそう思っただけだったとしましょう。そして翌日、本当に雨が降りました。この人の予想は当たっています。しかし、「明日雨が降ることを知っていた」と言えるでしょうか。

結果が正しかったというだけでは、知識と呼ぶには不十分なように思えます。ここには、正しい内容を信じることと、それを正しいと考える理由があることの違いがあります。

ただし、JTBは、プラトン自身が完成された定義として確立したものではありません。『テアイテトス』の議論と、後世の認識論で整理された知識の古典的分析は、区別する必要があります。

デカルトは、なぜ当たり前のことまで疑ったのか

知識の確実性を考えるうえで、もう一人重要な哲学者がいます。ルネ・デカルト(1596〜1650)です。デカルトは『省察』(1641年)で、私たちが当然だと信じていることを、一度徹底して疑う方法を用いました。

疑えるものを保留して、
確実な土台を探す

デカルトの方法的懐疑

感覚を疑う

感覚は、ときに私たちを欺く

遠くのものは実際と違う大きさに見え、夢の中では目の前の出来事を現実だと信じている

保留する

確実だと思っていることも、疑おうと思えば疑える

疑えないもの

疑っている思考がある以上、考えている自分の存在は否定できない

「我思う、ゆえに我あり」

疑いは、確実な土台を見つけるための保留。

ただし、この一文で外界や他人の存在まで証明したわけではない。確実な知識の基礎づけをめぐっては、さまざまな批判や議論がある。

※Descartes『省察』、Stanford Encyclopedia of Philosophy「Descartes' Epistemology」をもとに簡略化した図です。

疑うことは、結論を出さないことではない

ここで重要なのは、デカルトの方法的懐疑を、すべてを否定する態度と混同しないことだと思います。デカルトは、何も信じずに生きることを目的にしていたわけではありません。

もちろん、企業の経営判断にデカルトの方法をそのまま適用することはできません。事業では、完全に確実な知識が得られるまで、判断を保留し続けるわけにはいかないからです。それでも、広く知られているからという理由で、ある理論を正しいと受け入れていないかを考える姿勢には、学ぶところがあると思います。

例えば、マーケティングの会議で、ある理論を前提に施策を考えているとします。そのとき、その理論が原著でどのように説明されているのか。何が実証されていて、何が仮説なのか。自分たちが使おうとしている状況に、本当に当てはまるのか。そうしたことを一度確認するだけでも、判断の前提を見直す機会になるでしょう。マズローのピラミッドを原著までたどってみた経験も、その一つだったと思います。

根拠があっても、偶然正しいことがある

ここまで、知識には正しい内容だけでなく、適切な根拠が必要だという話をしてきました。しかし、さらに難しい問題があります。信じている内容が正しく、その信念に根拠があったとしても、それを知識とは呼びにくい場合があるのです。この問題を示したのが、哲学者エドマンド・ゲティアです。

ゲティアの反例

1963年、ゲティアは『Is Justified True Belief Knowledge?』という短い論文を発表しました。その中で、知識を「正当化された真なる信念」と定義するだけでは不十分ではないかと論じています。彼が示した例の一つを考えてみます。

ある会社の採用選考で、スミスとジョーンズという二人が候補になっています。スミスには、ジョーンズが採用されると信じる強い理由がありました。また、スミスはジョーンズのポケットに硬貨が10枚入っていることも確認していました。そこで、スミスはこう考えます。

「採用される人は、ポケットに硬貨を10枚持っている」

この推論には、スミスなりの根拠があります。しかし実際には、採用されたのはジョーンズではなくスミスでした。そして偶然、スミス自身もポケットに硬貨を10枚持っていたのです。

スミスの信念は正しく、信じるための一定の根拠もありました。しかし、私たちはスミスがそのことを知っていたと言えるでしょうか。どうも違うように感じられます。信じた理由と、内容が正しくなった理由が、偶然によって食い違っているからです。これがゲティア問題として知られる議論です。

根拠があり、結果も正しい。
それでも知識とは限らない

知識の古典的な3条件(JTB)

  1. 01 信念 本人が信じている
  2. 02 真理 内容が実際に正しい
  3. 03 正当化 適切な根拠がある

ゲティアの「硬貨10枚」の反例

スミスが信じたこと

ジョーンズが採用される

ジョーンズは硬貨を10枚持っている

実際に起きたこと

スミスが採用される

偶然スミスも硬貨を10枚持っていた

「採用される人は硬貨を10枚持つ」は真だった。

偶然当たったことと、知っていたことは違う。

ゲティア問題は、古典的な3条件だけでは知識を十分に説明できない可能性を示す。

※出典:Gettier(1963)、Stanford Encyclopedia of Philosophy「The Analysis of Knowledge」。

正しく予測できたことは、理解していた証拠になるのか

この問題は、実務における判断を振り返る際にも、興味深い視点を与えてくれます。冒頭の広告施策の例では、予測は当たっていました。しかし、売上が伸びた背景には、競合企業の供給停止という別の理由が重なっていました。

ただし、これはゲティア問題そのものではありません。ゲティア問題は知識の定義に関する哲学的な問題です。一方、広告施策と売上の関係を検討することは、因果推論の問題です。それでも、結果が正しかったことと、その結果がなぜ生じたのかを理解していたことを区別するうえで、参考になる考え方だと思います。

判断のよし悪しは、結果だけでは決められない

ここで注意したいのは、結果がよかったからといって、判断の過程まで正しかったとは限らないことです。反対に、十分な根拠を持って判断したとしても、予測が外れることはあります。不確実な状況では、適切な判断と望ましい結果が、常に一致するわけではありません。

十分な調査を行い、合理的な仮説を立て、慎重に実行したとしても、期待した成果が出ないことがあります。反対に、根拠が乏しいまま実行した施策が、偶然うまくいくこともあります。当然、成果が出たかどうかは重要です。しかし、それだけで判断の過程まで正しかったかどうかは決まりません。

判断の根拠と結果は、
分けて振り返る

結果がよくても、判断の過程まで正しかったとは限らない

期待した成果が出た成果が出なかった

根拠が十分根拠が乏しい

判断も結果もよい

ただし、なぜうまくいったのかは確かめる

判断はよいが、結果が伴わない

判断の誤りとは限らない。何が想定外だったかを振り返る

偶然うまくいった

結果だけを見て、判断の仕方まで正しかったと考えない

判断も結果も見直す

根拠のどこが足りなかったのかを確かめる

※本文の議論をもとに整理した独自の図です。

私は、事業の意思決定では、少なくとも判断した時点での根拠と、その後に明らかになった結果を分けて振り返りたいと思います。

当時、何を知っていたのか。
何を仮説として扱っていたのか。
どのような可能性を考慮していたのか。
そして、結果から何が新たにわかったのか。

そうしたことを分けて考えれば、成功も失敗も、次の判断に生かしやすくなるのではないでしょうか。

おわりに|当たったことと、知っていたことを分ける

知識とは何かという問いは、プラトンの時代から考えられてきました。デカルトは、当然だと思っていることの確実性を疑いました。ゲティアは、正しい内容を根拠に基づいて信じていたとしても、知識とは呼びにくい場合があることを示しました。

こうした議論を学んだからといって、明日からすべての判断が正しくなるわけではありません。それでも、自分が何を根拠に正しいと考えているのかを確かめる習慣は持てるかもしれません。そして、必要であれば、以前の考えを変えることもできるでしょう。

知識を持つことと、その知識を疑えること。どちらも、ものの見方を広げるために必要なのではないでしょうか。

次に予測が当たったときには、一つだけ確かめてみたいと思います。

私は、なぜそうなったのかを本当に理解していたのだろうか。それとも、たまたま当たっただけなのだろうか。

参考文献・出典

本文中の認識論の説明は、プラトンとデカルトの著作、ゲティアの論文、Stanford Encyclopedia of Philosophyの解説などをもとにしています。実務への応用や仮想例には、筆者自身の考察が含まれます。

  1. Plato, Theaetetus(『テアイテトス』)。学術解説:Stanford Encyclopedia of Philosophy — Plato on Knowledge in the Theaetetus(新しいタブで開きます)
  2. Descartes, R. (1641). Meditationes de Prima Philosophia(『省察』)。学術解説:Stanford Encyclopedia of Philosophy — Descartes' Epistemology(新しいタブで開きます)
  3. Gettier, E. L. (1963). Is Justified True Belief Knowledge?(新しいタブで開きます) Analysis, 23(6), 121–123.
  4. Stanford Encyclopedia of Philosophy, The Analysis of Knowledge(新しいタブで開きます)。知識の古典的分析とゲティア問題、その後の認識論についての学術解説。