ある企業が、社員の働き方を自由に選べる制度を導入したとします。出社するか、在宅勤務にするか。何時に仕事を始め、何時に終えるか。基本的には本人の判断に任されています。会社は、決まった時間に出社することを強制しません。社員が自分の生活に合った働き方を選べる、柔軟な制度です。

しかし、しばらくすると、少し気になることが見えてきました。重要な会議は夕方以降に設定されることが多く、経営者や管理職は夜遅くまで働いています。大きな仕事を任されるのは、そうした時間帯にも対応できる社員です。定時に仕事を終える人もいますが、重要な議論に参加する機会が限られています。

誰も、その人に長時間働くよう命令しているわけではありません。会社の制度上、働き方は自由です。それでも、その人は本当に自由に働き方を選べているのでしょうか。

前回の記事では、公平な競争について考えました。同じ評価基準が適用されていても、成果を生み出す機会が異なっていれば、公平さについて考える余地が残ります。では、自由についてはどうでしょうか。

Questions同じルールで競争すれば、それは公平なのか?プラトンとロールズから、成果主義と機会の平等を考える。

誰にも禁止されていなければ、自由なのでしょうか。
選択肢が用意されていれば、自由なのでしょうか。

さらに、本人が望ましい判断をできるように、企業や社会が支援することは、自由を増やすのでしょうか。それとも、自由を制限することになるのでしょうか。

今回は、19世紀の哲学者ジョン・スチュアート・ミルと、20世紀の思想家アイザイア・バーリンの議論を手がかりに、自由という言葉について考えてみたいと思います。なお、冒頭の企業は問題を説明するための仮想例です。

自由とは、何かを禁止されていないことなのか

自由について考えるとき、最初に思い浮かぶのは、何かを強制されたり、禁止されたりしないことかもしれません。

自分がどこに住むのかを選べる。
どのような仕事をするのかを決められる。
自分の意見を表明できる。
どのような生活を送るのかを、他人に一方的に決められない。

こうした状態を自由と考えることには、十分な理由があります。自分が望む行動を、他人が勝手に妨げることは、重要な問題だからです。

ただ、もう少し具体的に考えてみます。例えば、ある人が仕事を辞めたいと思っていたとします。法律上も、会社の制度上も、退職することは禁止されていません。しかし、その人には十分な貯蓄がなく、転職に必要な経験や技能を得る機会も限られています。すぐに退職すれば、生活を維持することが難しくなるかもしれません。

この人は、仕事を辞める自由を持っているのでしょうか。制度上は、退職することが認められています。しかし、現実にその選択を実行するための条件は、十分に整っていないのかもしれません。

ここで、二つの問いが生まれます。一つは、他人によって行動を妨げられているかどうか。もう一つは、自分が望む行動を、実際に選び取れる状態にあるかどうかです。この二つは、似ているようで異なります。

ただし、経済的な制約があることと、誰かに自由を奪われていることを、直ちに同じものとして扱うべきではありません。何を自由の制約と数えるのか自体が、政治哲学で争われてきた問題だからです。この違いを考えるうえで、ミルとバーリンの議論が参考になります。

ミルは、なぜ個人の自由を守ろうとしたのか

ジョン・スチュアート・ミル(1806〜1873)は、イギリスの哲学者・経済学者です。1859年に刊行した『自由論(On Liberty)』で、個人の自由と、社会が個人に対して行使できる権力の限界を論じました。

ミルが問題にしたのは、国家による強制だけではありません。社会の多数派が持つ意見や慣習によって、個人の行動や考え方が抑圧されることにも、強い関心を向けていました。

多数派の考えが、必ずしも正しいとは限らない

例えば、ある社会で、多くの人が一つの価値観を共有していたとします。その価値観と異なる生き方をする人がいた場合、周囲の人々は、その行動を好ましくないと考えるかもしれません。場合によっては、批判したり、社会的に排除したりすることもあるでしょう。

ここで重要なのは、多数派の意見に従うことと、その意見が正しいことは、同じではないという点です。多数の人が同じ考えを持っていても、その考えが誤っている可能性はあります。少数派の意見にも、検討すべき理由があるかもしれません。

ミルは『自由論』第2章で、思想や議論の自由を擁護しました。ある意見が誤っているように見えても、その意見を議論から排除すれば、誤りを訂正する機会を失う可能性があります。また、自分たちが正しいと考える意見についても、異なる立場からの批判に向き合うことで、その根拠を深く理解できるようになります。

この議論は、以前の記事で考えた確証バイアスともつながります。自分の考えを支持する情報だけに触れていれば、その考えが正しいという確信は強まるかもしれません。しかし、異なる意見に触れ、その根拠を検討することで、自分の考えが持っている限界に気づくこともできます。

Questionsなぜ私たちは、自分に都合のよい情報を信じてしまうのか?ベーコンのイドラと心理学から、判断の偏りを考える。

もちろん、ミルの議論を、すべての意見が同じように正しいという相対主義として理解するべきではありません。意見が異なるからこそ、理由を示し、議論を通して検討することが重要なのです。

危害原理|本人のためなら、自由を制限してよいのか

ミルの『自由論』で特に重要なのが、「危害原理(harm principle)」と呼ばれる考え方です。大まかにいえば、成熟した個人の意思に反して社会が強制的に介入することは、他者への危害を防ぐ場合に正当化され得る、というものです。

例えば、ある人が他者に重大な危害を与えようとしている場合、それを防ぐために行動を制限することには理由があります。しかし、その人自身にとって望ましくない選択だという理由だけで、強制的に行動を変えさせてよいのでしょうか。

ミルは、本人にとって幸福になるはずだという理由だけで、成熟した個人を強制することに慎重でした。なぜなら、何が本人にとって望ましい生き方なのかについて、他人が必ずしも正しく判断できるとは限らないからです。

例えば、ある人が安定した職業を辞め、収入の不確かな創作活動に挑戦したいと考えているとします。家族や友人は、その選択を心配するかもしれません。収入が減る可能性もありますし、将来の生活に不安が生じるかもしれません。その人に対して、リスクを説明したり、別の選択肢を提案したりすることには意味があります。しかし、本人が事情を理解したうえで判断しようとしているなら、周囲の人々が自分たちの幸福観を理由に、本人の選択を強制的に変更させてよいとは限りません。

本人のためという理由だけで、
自由を制限してよいのか

ミルの危害原理|誰のために介入するのか

ある人が、自分の意思で行動を選ぶ

周囲の人は、その選択を心配している

Case A

主として本人に関わる選択

不安定な仕事へ挑戦する。生活を変える。

助言・説得と、強制を区別する

本人にとって不利益がありそうだという理由だけでは、強制の正当化にはならない。

Case B

他者への危害が関わる選択

他人の権利や安全を具体的に脅かす。

危害を防ぐ介入を検討できる

危害の性質や介入の方法を確かめる必要がある。

「その人のため」と「他者を守るため」は、
異なる理由。

「他人に少しでも影響があれば制限できる」という意味ではない。人間の行動は、何らかの形で他人に影響するものだから。

※J・S・ミル『自由論』第1章・第4章をもとに、議論を簡略化した図です。ミルは、自分を奴隷として売り渡す契約を認めないなど、介入を一切否定したわけではありません。例外や介入の正当化をめぐっては、学術的な議論があります。

どこから正当な介入になるのかについては、ミルの理論の内部にも難しい問題が残ります。それでも、他人のためになるという理由だけで、その人の自由を制限してよいのかという問いは、今でも重要だと思います。

自分で失敗することにも、価値はあるのか

ミルの自由論でもう一つ興味深いのが、個性や多様な生き方を重視したことです。『自由論』第3章では、個性を人間の幸福や発展に関わる重要な要素として論じています。人々が自分の判断によって異なる生き方を試みることには、社会全体にとっても意味があると考えました。

正しい選択肢を教えるだけでは、十分ではない

例えば、ある組織が、若い社員の成長を支援しようとしているとします。管理職は、これまでの経験から、どのような仕事を経験すれば能力が伸びやすいかを理解しているつもりです。そこで、社員一人ひとりに最適と思われるキャリアを設計しました。研修内容も、担当する仕事も、将来の役割も、本人が迷わないように決めています。

実際に、その制度によって効率的に成長できる社員もいるかもしれません。しかし、すべての人にとって、その制度が望ましいとは限りません。本人が想定していなかった領域に興味を持つこともあるでしょう。管理職が向いていないと考えた仕事に、実際には大きな適性がある場合も考えられます。自分で選択し、ときには失敗することによって、初めて自分にとって大切なことがわかる場合もあります。

ここで気になるのは、成果の出やすい道筋を用意することと、本人が自分の人生を選び取ることは、必ずしも同じではないという点です。

失敗しない自由ではなく、試す自由

ミルは、個人が異なる生き方を試すことの価値を重視しました。これは、すべての挑戦が成功するという意味ではありません。むしろ、異なる選択を認める以上、望ましくない結果になることもあります。しかし、失敗する可能性があるという理由だけで、選択肢を閉ざすことには問題があるかもしれません。

例えば、ある人が独立して事業を始めようとしています。周囲から見れば、現在の仕事を続ける方が安定しているように見えるでしょう。しかし、本人にとっては、独立して何かをつくることが大切なのかもしれません。その選択が成功するかどうかは、事前にはわかりません。そして、成功しなかったとしても、そこから何も得られないとは限りません。

もちろん、失敗によって他者に重大な不利益が生じる場合には、別の検討が必要です。他人の権利や安全を損なう行動を、個人の自由という言葉だけで正当化することはできません。それでも、本人が結果を引き受ける選択について、社会がどこまで口を出すべきなのかという問題は残ります。

私は、ここに自由を考えるうえでの大切な視点があると思います。自由とは、常に正しい選択をできる状態を意味するわけではありません。自分で考え、選び、その結果から学ぶ余地があることも、自由に関わっているのではないでしょうか。

バーリンが区別した、二つの自由

ミルから約100年後、自由の概念を改めて整理した思想家がいます。アイザイア・バーリン(1909〜1997)です。バーリンは1958年の講演『二つの自由概念(Two Concepts of Liberty)』で、「消極的自由」と「積極的自由」という二つの考え方を論じました。

ここでの「消極的」「積極的」は、よい自由と悪い自由という意味ではありません。自由を何によって理解するかという、異なる視点を表しています。

消極的自由|他者から妨げられないこと

消極的自由は、他者による干渉や強制がないことに注目します。

好きな本を読むことを禁止されていない。
自分の意見を述べることを、国家や他人によって妨げられない。
自分の生き方について、一定の範囲で他人から干渉されない。

こうしたことが重要になります。消極的自由の観点では、他人による不当な制約を取り除くことが、自由を守るための中心的な問題になります。

ここで注意したいのは、何かを実行する能力が十分でないことと、他人から干渉されていることは、必ずしも同じではないという点です。例えば、ある人が海外旅行に行きたいと思っていても、費用が足りなければ行けないかもしれません。それを、誰かがその人の旅行を禁止している場合と同じような自由の制限として扱えるのかについては、議論があります。何を干渉や障害として数えるかによって、自由の理解は変わるのです。

積極的自由|自分自身を方向づけること

一方、積極的自由は、自分の人生や行動を自分自身で方向づけられることに関わります。誰にも禁止されていないというだけでなく、自分自身が意思決定の主体になっているかどうかという問題です。

例えば、ある人が、自分にとって重要な仕事に集中したいと考えているとします。しかし、目先の刺激に引きずられ、何度も別の行動を選んでしまいます。誰かにその行動を強制されているわけではありません。外部から見れば、好きなことを自由にしているようにも見えます。しかし、本人は、自分が本当に取り組みたいことを実行できていないと感じています。

このような場合、他者からの干渉がないことだけでは、自分自身を方向づけられているかどうかを十分に説明できません。バーリンが論じた積極的自由は、こうした自己支配や自己決定に関わる考え方です。

ただし、積極的自由を、単に選択肢を増やしたり、十分なお金や能力を持ったりすることと同じ意味で理解するのは不正確です。そうした条件が自己決定を支える場合はありますが、バーリンが中心的に考えたのは、自分の行動や人生を誰が支配しているのかという問題です。

二つの自由は、必ずしも一致しない

ここまでの違いを、冒頭の働き方の例で考えてみます。会社が、働く時間を自由に選べる制度を導入したとします。会社が社員に特定の時間帯の勤務を強制していないことは、他者からの干渉を減らすという意味で重要です。しかし、社員が周囲の期待に強く影響され、自分が望む働き方を選べなくなっているなら、自己決定について別の問題が残るかもしれません。

反対に、社員が自分の将来のために必要だと考える研修を受けることで、より自律的に仕事を選べるようになる場合もあるでしょう。このとき、自由を考えるためには、外部からの干渉だけでなく、本人が意思決定をどのように行っているかにも目を向ける必要があります。

ただし、組織の慣行による圧力や、働き方を実行するための資源の不足を、すべてバーリンの二つの自由だけで分類できるわけではありません。その区別自体に限界があることも、後で考えてみたいと思います。

邪魔されないことと、
自分で決めること

バーリンの二つの自由概念

Negative Liberty消極的自由

他者から妨げられていないか?

強制・禁止・干渉から自由であること

Positive Liberty積極的自由

誰が自分の人生を方向づけているか?

自己支配・自己決定の主体であること

働き方の例に当てはめると

会社が勤務時間を一律に強制していないか。

社員が自分の目的に沿って、働き方を決められているか。

二つの問いは関連するが、同じではない。

制度上の選択肢や資源の多さを、そのまま積極的自由と同一視しないことが重要。

※出典:Berlin(1958)"Two Concepts of Liberty"、Carter「Positive and Negative Liberty」。

本人のためなら、自由に介入してもよいのか

ここで、積極的自由について、難しい問題が出てきます。本人が自分の人生を適切に方向づけられることが重要だとすれば、他人がそれを支援することは望ましいかもしれません。しかし、その支援が行き過ぎると、何が起こるのでしょうか。

「本当のあなたのため」という言葉の危うさ

例えば、ある経営者が、社員の成長を重視しているとします。社員には、自分の能力を最大限に発揮してほしいと考えています。そのため、挑戦的な仕事を数多く用意し、成長につながる経験を積ませようとします。ここまでは、社員の機会を増やす取り組みとして理解できます。

しかし、ある社員が、今は仕事以外の生活を大切にしたいと考えたとします。そのとき経営者が、次のように考えたらどうでしょうか。

  • 「本人はまだ気づいていないだけで、本当はもっと成長したいはずだ」
  • 「今は楽な方を選ぼうとしているが、将来のためには挑戦させるべきだ」
  • 「本人が嫌がっていても、成長につながる仕事を任せることが、その人の自由を広げることになる」

こうした考え方には、危うさがあると思います。本人の意思よりも、他人が定義した「本当の望み」が優先されてしまうからです。

バーリンが警戒した積極的自由の逆説

バーリンは、積極的自由の考え方が、特定の条件のもとで、他人への強制を正当化する思想へと変化する危険を指摘しました。その道筋を整理すると、次のようになります。

自由という言葉が、
自由を制限する理由になるとき

バーリンが警戒した、積極的自由の逆説

「本来の自分」と「劣った自分」を分ける

合理的で優れた自分と、目先の欲望に左右される自分

誰かが、本人の「本来の利益」を
本人以上に理解できると主張する

「本当の自由を実現するためだ」として、
本人が望まない行動を強制する

政治的な抑圧の正当化へとつながる

積極的自由が、必ず独裁につながる
という主張ではない。

積極的自由には、個人が自分の人生を主体的に生きることを重視する側面もある。

※Berlin(1958)"Two Concepts of Liberty"の議論をもとに簡略化した図です。

「他人の本当の利益」を誰かが決め、その利益のために本人の意思を無視できるとすれば、自由という言葉が、自由を制限する理由になってしまう可能性があるのです。

では、本人の意思を尊重するだけでよいのか

ただ、ここで逆の問題も考える必要があります。本人が望んでいるなら、どのような行動でも認めるべきなのでしょうか。

例えば、ある人が深刻な危険を十分に理解できていない状況にあったとします。また、判断に必要な情報を故意に隠されている場合もあるでしょう。そのような状況で、本人が選んだという事実だけを理由に、介入を一切認めないことは適切なのでしょうか。さらに、本人の選択によって、他者の権利や安全が損なわれる場合もあります。

こうした問題を考えると、自由を守ることと、あらゆる介入を拒絶することは、同じではないとわかります。必要なのは、誰が、何を根拠に、どの程度の介入を行うことが正当化されるのかを考えることなのでしょう。

選択肢を用意することと、実際に選べること

ここまで見てきた二つの自由の概念は、自由について考えるための重要な視点を与えてくれます。しかし、それだけでは扱いきれない問題もあります。

例えば、社会の中で誰もが同じ権利を持っていたとしても、その権利を実際に行使できるとは限りません。教育を受ける権利があっても、学校に通うための費用や交通手段がなければ、利用できないかもしれません。働き方を自由に選べる制度があっても、その選択によって生活を維持できなくなるなら、実際の選択肢は限られているでしょう。この問題を考えるうえで参考になるのが、アマルティア・センらのケイパビリティ・アプローチです。

実質的な自由という考え方

ケイパビリティ・アプローチでは、人が実際にどのような活動や生き方を選べるのかという機会を重視します。例えば、同じ金額の収入があっても、健康状態や生活環境によって、実際にできることは異なる場合があります。同じサービスが用意されていても、利用するための条件が人によって違うこともあります。重要なのは、制度や資源が存在することだけではありません。それを使って、本人が何を実現できるのかという点です。

ただし、このケイパビリティの意味での実質的な自由を、バーリンの積極的自由とそのまま同一視するべきではありません。センらは、実際に選べる機会の集合を重視します。一方、バーリンの積極的自由は、自己支配や自己決定の主体が誰であるかという問いを中心にしています。両者には関係がありますが、同じ問題を扱っているわけではありません。ここでは、自由を考える視点を補うものとして参照したいと思います。

選択肢が増えれば、自由も増えるのか

さらに、選択肢について、もう一つ考えたいことがあります。制度上の選択肢の数と、本人が実際に選べる働き方は、同じなのでしょうか。

選択肢の数と、
実際に選べることは違う

働き方の選択肢を用意した、二つの制度

制度A10種類の働き方

どれを選んでも、同じ時間帯に働くことが期待される

実現できる働き方には、それほど違いがないかもしれない

制度B2種類の働き方

それぞれを実際に利用でき、状況に応じて変更できる

本人にとって重要な自由が保障されている場合もある

選択肢の数だけでは、
本人が何を選べるのかを説明できない。

本人の希望と、その希望を実行できる条件の両方を見る。

※筆者が設定した仮想例です。

もちろん、選択肢が多いことに意味がないわけではありません。そして、何を選びたいのかについても、他人が一方的に決めるべきではないと思います。

人の選択を助けるデザインは、自由を増やすのか

自由と介入の関係は、企業や組織の制度だけでなく、サービスやWebサイトのデザインにも関係します。例えば、あるWebサービスへの会員登録を考えてみます。登録画面には、サービスの利用に必要な情報とともに、広告メールを受け取るかどうかの選択肢が用意されています。どちらを選んでも、サービスは利用できます。

しかし、最初から「広告メールを受け取る」にチェックが入っている場合と、何も選択されていない場合では、人々の行動は変わる可能性があります。さらに、登録は簡単なのに、解約するためには複数の画面を移動し、わかりにくいボタンを探す必要があるとしたらどうでしょうか。形式上は、いつでも解約できます。しかし、実際には解約することが難しくなるように設計されているかもしれません。

ここには、興味深い問題があります。選択肢を残しているだけで、利用者の自由を尊重していると言えるのでしょうか。

選択の設計は、行動に影響する

行動経済学者のリチャード・セイラーと法学者のキャス・サンスティーンは、2003年の論文で「リバタリアン・パターナリズム」という考え方を論じました。これは、本人の選択肢を残しながら、本人にとって望ましいと思われる方向へ選択を促すことを考える立場です。その後、彼らは、人々が選択肢をどのように提示されるかによって行動が変わることを「選択アーキテクチャ」という考え方で広く紹介しました。

例えば、何も操作しなかった場合に選ばれる初期設定を変更することがあります。また、複雑な情報を整理したり、重要な注意点をわかりやすく提示したりすることも考えられます。選択肢の並べ方や説明方法は、利用者の行動に影響を与える可能性があります。

そして、何も意図せずに画面をつくったとしても、何らかの順番や初期設定は決めなければなりません。その意味では、選択に影響する設計を完全に避けることは難しいのでしょう。

本人のための設計と、企業のための誘導

ここで重要なのは、誰の利益を目的として選択を設計しているのかという問題です。例えば、利用者が自分の状況に合ったサービスを選びやすいように、必要な情報を整理することには意味があります。契約条件や料金をわかりやすく示し、複数の選択肢を比較できるようにすることも、本人の判断を支えるでしょう。

一方、企業の売上を増やすために、不利な条件を見えにくくしたり、解約を難しくしたりすることはどうでしょうか。形式上は選択肢が残っていても、本人が十分な情報に基づいて選べなくなる可能性があります。

ただし、選択を促す設計が、すべて不当な操作になるわけではありません。人々が判断するための負担を減らし、本人の目標を実現しやすくする設計もあるからです。逆に、「本人のため」という説明だけで、その設計が正当化されるわけでもありません。本人が何を望んでいるのかを、企業が本当に理解しているとは限らないからです。

ここで、ミルとバーリンの議論が再び関係してきます。本人にとって望ましい選択を支援することには価値があります。しかし、その望ましさを企業が一方的に定義してしまえば、本人の自己決定を損なう可能性があります。

自由を尊重するデザインを、どう考えるか

私は、サービスを設計する際には、単に選択肢が存在しているかだけでなく、次のことを考える必要があると思います。

利用者は、自分が何を選ぼうとしているのかを理解できているでしょうか。
選択肢ごとの重要な違いを、適切に比較できるでしょうか。
企業にとって望ましい選択だけが、目立つようになっていないでしょうか。
そして、一度選んだ内容を、合理的な負担で変更したり、取り消したりできるでしょうか。

もちろん、すべての選択肢を完全に同じように表示する必要があるとは限りません。安全上の理由から、特定の選択を避けてもらうべき場合もあります。ただし、その場合にも、どのような理由によって介入するのかを説明できることが重要だと思います。

選択を助けるデザインと、選択を操るデザイン。両者の境界は、見た目だけでは判断できません。目的、情報の提示方法、選択のしやすさ、取り消すための条件などを含めて考える必要があるのでしょう。

選べることと、選びやすいこと。
そして、選び直せること

Webサービスの申し込みと解約を例に、選択の設計を考える

Design A利用者の判断を支える

  • 選択肢をわかりやすく表示
  • 料金・条件を確認できる
  • 変更・解約の方法が明確

Design B企業に都合よく誘導する

  • 特定の選択肢だけ目立つ
  • 重要な条件が見つけにくい
  • 変更・解約が複雑

選択を尊重するための三つの確認

  1. 01理解できるか何を選び、何に同意しているのか
  2. 02選び分けられるか重要な選択肢を不当に隠していないか
  3. 03選び直せるか変更や取り消しに過大な負担がないか

※選択アーキテクチャと自律性の議論をもとにした筆者独自の整理です。具体的なデザインの正当性は、サービスの性質、利用者、介入の目的によって異なります。

自由を守ることと、組織を運営することは両立するのか

ここまで自由について考えてきましたが、現実の組織には、もう一つの難しさがあります。個人の自由を尊重することは重要です。しかし、企業や社会は、複数の人々が協力しながら活動しています。一人の選択が、ほかの人の仕事や生活に影響する場合もあります。

例えば、社員全員が好きな時間に働くことを選んだとします。一方で、顧客への対応には一定の時間帯での勤務が必要だとします。この場合、組織はどこまで働く時間を調整するよう求めてよいのでしょうか。すべてを本人の自由に任せれば、ほかの社員に負担が集中するかもしれません。反対に、すべての社員へ同じ働き方を強制すれば、不必要な制約が生まれる可能性があります。ここでは、個人の自由と、ほかの人々への責任が関わっています。

自由を制限する理由は、説明できるか

私は、組織が一定のルールを設けること自体を、自由への不当な介入だとは考えていません。組織には、果たさなければならない責任があるからです。しかし、そのルールが本当に必要なのかは、確かめる必要があります。

その制約は、
本当に必要なのか

例:毎日全員が同じ時間に出社することが求められている

目的

何のためのルールか

顧客との約束を守る。社員の健康や安全を守る。
仕事の負担が一部の人に偏らないようにする。

必要性

仕事を進めるうえで不可欠か。
慣習が残っているだけか。

ほかの方法でも達成できる

個人の選択を
不必要に制限しない

共通の時間帯での協力が不可欠

理由を説明し、
必要な範囲で調整を求める

※本文の議論をもとに整理した独自の図です。出社の例は仮想例です。

自由を尊重することは、あらゆるルールをなくすことではありません。なぜその制約が必要なのか、ほかに方法はないのかを問い続けることでもあるのだと思います。

自由を考えるとき、何を確かめたいか

今回の議論を通して、私自身が考えたいことを整理してみます。干渉の有無から始めて、本人の目的、実行の条件、介入の理由、そして制約の程度までを順に確かめたいと思います。

自由を考えるときに確かめたい、
五つのこと

  1. 01干渉何が選択を妨げているのか。禁止なのか、周囲の圧力なのか。すべてを同じ意味の制限として扱わない。
  2. 02本人の目的本人は何を選びたいのか。他人の望む生き方を押しつけていないか。
  3. 03実行の条件制度上は認められていても、選択を実行するための情報や機会はあるか。
  4. 04介入の理由誰のどのような利益を守るための介入なのか。本人の利益か、他者の権利や安全か、運営側の都合か。
  5. 05制約の程度全面的に禁止する必要があるのか。情報提供や別の選択肢で足りないか。

※本文の議論をもとに整理した独自の図です。

もちろん、これらの問いを確認すれば、必ず一つの正しい答えが出るわけではありません。自由と安全、個人の自己決定と他者への責任、効率と公平さが衝突する場合もあります。そのときには、何を優先するのかという価値判断が必要になります。そして、その価値判断を、本人にとって望ましいはずだという説明だけで済ませないことが重要なのだと思います。

自由を誰が定義するのか

ここで、もう一つ忘れたくないことがあります。自由を守ろうとする側にも、価値観があるということです。

例えば、企業が社員の自律性を高めたいと考えたとします。それ自体は、望ましい目的かもしれません。しかし、その企業が定義する「自律的な社員」が、常に新しい挑戦を求める人だったとしたらどうでしょうか。安定して仕事を続けたい人や、仕事以外の生活を重視する人は、自律的ではないと評価されてしまうかもしれません。その場合、自律性を重視しているはずの制度が、特定の生き方を優遇する仕組みになっている可能性があります。

ここに、バーリンが指摘した問題と通じるものを感じます。何がその人の本当の利益なのかを、他人が決めてしまうこと。そして、その利益を実現するためだとして、本人の意思を軽視すること。それでは、自由を尊重しているつもりでも、別の形で自由を狭めてしまうかもしれません。だからこそ、自由を実現する制度を考えるときには、その制度をつくる側の価値観も疑う必要があるのでしょう。

おわりに|自由とは、好きにさせることなのか

自由とは何でしょうか。

誰にも邪魔されないことなのでしょうか。
自分で人生を方向づけられることなのでしょうか。
それとも、選びたいことを実際に選べる条件が整っていることなのでしょうか。

今回、ミルとバーリンの議論を通して、自由という言葉が、思っていた以上に複数の問題を含んでいることに気づきました。

ミルは、国家による強制だけでなく、社会の多数派が持つ価値観によって個人が抑圧されることにも警戒しました。そして、他者への危害を防ぐことと、本人のためという理由で選択を強制することを区別しようとしました。バーリンは、他者からの干渉がないことを重視する消極的自由と、自分自身を方向づけることに関わる積極的自由を区別しました。さらに、積極的自由が、他人の「本当の利益」を決めつけることによって、強制を正当化する危険も指摘しました。

この議論を、現代の企業やサービスの問題に当てはめて考えると、自由を尊重することの難しさが見えてきます。会社が働き方を自由に選べる制度をつくったとしても、それだけで十分とは限りません。重要な仕事の機会や評価のされ方によって、実際には選びにくい働き方が生まれる可能性があります。また、利用者のためにサービスを使いやすくしたとしても、選択を誘導する方法によっては、本人の自己決定を損なう場合があるでしょう。

一方で、他人の自由を尊重するという理由だけで、あらゆる介入を拒絶することもできません。人々は互いに影響し合いながら生活しています。誰かの選択が、ほかの人の安全や権利を損なう場合もあります。だから、自由を守るためにも、一定のルールや支援が必要になることがあります。

今回、私が特に考えさせられたのは、自由を増やそうとする行為が、別の自由を狭めてしまう可能性があるということでした。社員の成長を願うこと。顧客に適切な選択をしてほしいと考えること。社会の中で人々がよりよく生きられる条件を整えること。いずれも重要な目的だと思います。しかし、その目的のために、本人が何を望むべきかまで決めてしまうとしたら、そこには別の問題が生まれます。

私は、自由を尊重することを、単に好きなようにさせることとは考えたくありません。同時に、本人のために正しい選択をさせることとも考えたくありません。

本人が何を選びたいのかを尊重し、その選択を実際に行える条件を考えながら、他者への責任との境界を見極めること。そこに、自由を考える難しさがあるのだと思います。

そして最後に、一つの問いが残ります。

私たちが誰かの自由を支援していると思っているとき、その人自身が望む自由ではなく、私たちが望む生き方を実現させようとしてはいないでしょうか。

参考文献・出典

以下は学術的な説明の主な参照文献です。働き方・企業組織・Webサービスに関する事例は理解のための仮想例であり、思想家本人が現代の企業制度やサービスデザインを直接論じたものではありません。

  1. Mill, J. S. (1859). On Liberty(『自由論』)。特に第1章(社会の権力と個人の自由)、第2章(思想と言論の自由)、第3章(個性)、第4章(社会の権限)、第5章(適用)。原典全文:Project Gutenberg(新しいタブで開きます)
  2. Stanford Encyclopedia of Philosophy, John Stuart Mill(新しいタブで開きます)。危害原理、個人の自由、国家と社会による強制、パターナリズムをめぐる学術解説。
  3. Berlin, I. (1958). Two Concepts of Liberty(『二つの自由概念』)。消極的自由と積極的自由の区別、および自由の名のもとに強制を正当化する危険についての講演。資料・成立史:Isaiah Berlin Online(Oxford)(新しいタブで開きます)
  4. Berlin, I. (2002). Liberty. H. Hardy (Ed.). Oxford University Press. 『二つの自由概念』を収録した論文集。書籍情報:Oxford Academic(DOI)(新しいタブで開きます)
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  6. MacCallum, G. C., Jr. (1967). Negative and Positive Freedom(新しいタブで開きます). The Philosophical Review, 76(3), 312–334. 消極的自由・積極的自由の二分法に対する批判と、自由を三項関係として捉える議論。
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  8. Sunstein, C. R., & Thaler, R. H. (2003). Libertarian Paternalism Is Not an Oxymoron(新しいタブで開きます). University of Chicago Law Review, 70(4), 1159–1202. 選択を維持しながら行動を促す設計と、その正当性についての論文。
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