ある企業が、新しいサービスを検討しているとします。会議では、経営者や事業責任者、マーケティング担当者などが集まり、サービスの提供方法について話し合っていました。そこで、入社して間もない社員が一つの懸念を示します。
「顧客が本当に求めているのは、新しい機能ではなく、今あるサービスをもっとわかりやすく使えることではないでしょうか」
しかし、その意見はあまり取り上げられませんでした。まだ経験が浅いからかもしれません。実際に顧客を担当しているわけではなく、説得力のある根拠も示せていなかったのかもしれません。会議では、そのまま新機能を開発する方向で議論が進みました。
しばらくして、経営者が似た意見を述べます。
「顧客が必要としているのは、機能を増やすことではなく、既存サービスをもっと使いやすくすることかもしれない」
すると、参加者の反応が変わりました。「確かに、顧客体験を見直すべきかもしれません」「一度、利用状況を調べてみましょう」。最初の社員が発言したときには十分に検討されなかった意見が、経営者の言葉として語られることで、重要な問題として扱われるようになったのです。
これは仮想的な事例ですが、似た状況を思い浮かべられる人は少なくないかもしれません。では、なぜこのようなことが起こるのでしょうか。発言の内容ではなく、誰が発言したのかによって、私たちの判断が変わっているのでしょうか。
もちろん、話した人の経験や専門性によって、発言の信頼性を評価することは必要です。長年その領域を研究してきた専門家と、初めてその問題を知った人の意見を、まったく同じ根拠として扱うことはできないでしょう。
しかし、発言した人の専門性を考慮することと、その人の立場や属性によって、意見の価値を最初から低く見積もることは同じなのでしょうか。
前回の記事では、会議の参加者がそれぞれ重要な情報を持っていても、話し合いの中で十分に共有されないことを考えました。今回は、その問題をさらに進めたいと思います。情報が共有されていないだけではありません。情報が実際に発言されていても、それを語る人が信頼されなければ、判断には使われないのではないか。
Questions会議で話し合うほど、なぜ重要な情報が見落とされるのか?隠れた情報の実験から、集合知と組織の意思決定を考える。
この問題を考えるうえで、重要な思想家がいます。イギリスの哲学者、ミランダ・フリッカーです。
私たちは、なぜ他人の話を信じられるのか
最初に考えたいのは、そもそも私たちが、他人の話をどのような根拠で信じているのかという問題です。
例えば、明日の天気を調べるとします。気象予報士が発表した予報を確認する人もいるでしょう。一方、知人が「明日は雨らしい」と話していたので、傘を持っていく人もいるかもしれません。どちらの場合も、自分自身で大気の状態を測定し、気象モデルを使って予測しているわけではありません。他人が伝えた情報を利用しています。
私たちの知識には、このような情報が数多く含まれています。歴史上の出来事。遠くの国で起きていること。医療や科学に関する専門知識。自分が直接経験していない仕事の状況。そのすべてを、自分で一から確かめることはできません。だから私たちは、他人から情報を得ることによって、自分の知らないことを理解しています。
哲学では、このように他者が語ることによって知識を得る行為を「証言(testimony)」という概念で考えます。ここでいう証言は、裁判所での証言だけを意味するものではありません。誰かが何かを伝え、それを聞いた人が知識を得るような、日常の幅広いやり取りを含みます。
証言は、それ自体で信じる理由になるのか
証言の認識論では、誰かの話を信じるために、どの程度の根拠が必要なのかが長く議論されてきました。代表的な二つの立場を整理すると、次のようになります。
話を信じるために、
独立した理由は必要か
証言の正当化をめぐる、二つの代表的な立場
Reductionism|ヒューム還元主義
話し手を信頼できる、独立した理由が必要
- 過去に正確な情報を伝えてきた
- 今回の話題について詳しい
- ほかの情報と大きく矛盾しない
Anti-reductionism|リード非還元主義
証言は、それ自体で一定の正当化を与える
信じるたびに信頼性を一から証明していたら、日常生活は成り立たない
どちらも、誰の話でも
無条件に信じるという意味ではない。
疑うべき事情があれば考慮する。証言を信頼できる条件については、現在も複数の立場がある。
※Stanford Encyclopedia of Philosophy「Epistemological Problems of Testimony」をもとに簡略化した図です。
ここで重要なのは、他人の話を信じること自体が、決して単純な行為ではないという点です。私たちは、発言の内容だけを取り出して判断しているわけではありません。話し手をどう認識しているかも、判断に関わっています。
「認識的不正義」とは何か
2007年、ミランダ・フリッカーは『Epistemic Injustice: Power and the Ethics of Knowing』という著作を出版しました。日本語では、一般に「認識的不正義」と呼ばれる問題を扱った本です。
認識論は、何を知識と呼べるのか、私たちはどのような根拠によって物事を知るのかを考える哲学の分野です。フリッカーは、その認識の営みそのものに、不正義が存在することを論じました。私たちは通常、不正義という言葉から、財産や権利、機会の不公平な分配を思い浮かべるかもしれません。しかし、誰かが知識を持つ人として扱われないことも、不正義の一つになり得ます。
フリッカーは、特に二つの形態を詳しく論じています。一つは、「証言的不正義(testimonial injustice)」です。もう一つは、「解釈的不正義(hermeneutical injustice)」です。
証言的不正義|話し手が不当に信頼されない
証言的不正義とは、話し手が社会的な属性に関わる偏見によって、本来与えられるべき信用よりも低い信用しか与えられないことです。
例えば、ある人が重要な出来事を説明しているとします。しかし、聞き手が、その人の属する社会的な集団に対して偏見を持っていたため、説明を十分に信頼しなかったとします。この場合、問題は単に情報が伝わらなかったことではありません。話し手が知識を持つ主体として、公正に扱われていないことにあります。フリッカーは、そのような不正義が、発言者の知識を伝える能力だけでなく、自分自身を知る主体として理解するあり方にも影響することを論じています。
ここで注意したいのは、単に誰かの意見を採用しなかったことが、すべて証言的不正義になるわけではないという点です。発言に十分な根拠がなかった場合もあります。話し手が専門領域について誤解していた可能性もあります。また、複数の信頼できる情報を比較した結果、その意見を採用しないという判断もあるでしょう。それらをすべて不正義と呼ぶのは適切ではありません。
フリッカーが中心的に扱ったのは、話し手の社会的な属性に基づく偏見によって、信用が不当に低く評価される問題です。この違いは、今回の記事でも大切にしたいと思います。
同じ発言でも、誰が話したかで評価が変わる
冒頭の企業の例に戻ります。入社して間もない社員が、サービス改善について意見を述べたとします。その意見が、根拠不足だったという理由で採用されなかったのであれば、それだけでは不公正だとは言えません。
しかし、十分な根拠が示されていたにもかかわらず、「若い社員の意見だから信用できない」といった固定的な見方によって、最初から検討対象から外されていたとしたらどうでしょうか。そこには、発言の内容ではなく、話し手の社会的な属性や立場に対する見方が影響しています。こうした場面を理解する際に、フリッカーの議論は参考になります。
ただし、組織内の役職や経験年数による信用の差を、そのまますべてフリッカーの証言的不正義に当てはめられるわけではありません。経験差を考慮する合理的な判断と、属性に基づく偏見による信用の過小評価は、区別する必要があります。
重要なのは、誰が発言したかを一切見ないことではないのでしょう。その人のどのような情報が、信用の評価に使われているのか。そして、その評価が偏見によって不当に歪められていないかを考えることなのだと思います。
発言の中身ではなく、
誰が話したかを評価していないか
同じ問題提起・同じ根拠
「新機能より、既存サービスの改善が必要では?」
経験の浅い社員
「まだ詳しくないだろう」と受け止められる
十分に検討されない
経営者
「重要な視点だ」と受け止められる
次の検討事項になる
評価の違いは、専門性や根拠によるものか。
それとも、発言者の属性に対する偏見によるものか。
※フリッカーの証言的不正義から着想を得た仮想例です。単に役職で反応が異なるだけでは認識的不正義は成立せず、属性に関わる偏見によって信用が不当に低く評価されているかを検討する必要があります。
「解釈的不正義」は、情報が伝わらないことと何が違うのか
フリッカーが論じたもう一つの問題が、解釈的不正義です。これは、証言的不正義とは異なる形の問題です。誰かが話している内容を聞き手が信用しないという以前に、本人の経験を理解したり、説明したりするために必要な概念が、社会の中で十分に共有されていない場合があります。フリッカーは、社会的に周縁化された人々の経験が、共有された解釈のための資源に十分に反映されないことによって、不利益が生じる問題を考えました。
例えば、ある人が不当な扱いを受けているとします。しかし、その経験を適切に説明するための言葉や概念が、社会の中に十分に存在していなかったとしたらどうでしょうか。本人も、自分に何が起きているのかを十分に理解できないかもしれません。また、周囲の人々も、その問題を社会的な不正義として認識できない可能性があります。
ここでの問題は、単に言葉の使い方が下手だということではありません。社会の中で、どのような経験が認識され、どのような経験が理解の枠組みから取り残されているのかという構造的な問題です。
顧客が言語化できない問題も、解釈的不正義なのか
この考え方を学んだとき、私は顧客調査の仕事を思い浮かべました。例えば、サービスを利用している人が、「何となく使いにくい」と感じていたとします。しかし、どのような点が使いにくいのかを、うまく説明できません。そこで、企業側が用意したアンケートに回答します。選択肢には「機能が不足している」「画面が見づらい」「料金が高い」といった項目が並んでいます。しかし、本人が感じている問題は、それらのどれにも十分には当てはまりません。
この場合、企業が用意した調査項目によって、顧客の経験が十分に捉えられていない可能性があります。ただし、これだけでフリッカーのいう解釈的不正義が成立しているとは言えません。単に調査設計が不十分だったという問題かもしれないからです。解釈的不正義を論じるには、社会的な権力関係や、特定の集団の経験が共有された解釈の枠組みから排除されているかどうかを検討する必要があります。
例えば、あるサービスの設計や調査において、特定の立場にある利用者が継続的に意思決定から排除されていたとします。その結果、その人々に固有の不利益を理解するための概念が、調査や設計の中に存在していないとしたらどうでしょうか。そこには、単なる質問項目の不足を超えた問題があるかもしれません。
このように考えると、調査で何を尋ねているのかだけでなく、そもそも誰の経験によって、質問や評価の枠組みがつくられているのかという問いも重要になってきます。
声が信頼されないことと、
経験を説明する言葉がないこと
フリッカーが論じた、二つの認識的不正義
Testimonial証言的不正義
話した内容への信用が、偏見によって不当に低くなる
中心となる問題|信用の不公正な評価
Hermeneutical解釈的不正義
社会的な偏りによって、経験を理解・説明する概念が不足する
中心となる問題|共有された解釈資源の不公正
どちらも、知識を持つ主体としての
人間の扱いに関わる。
単なる意見の不採用や、一般的な説明不足をすべて認識的不正義と呼ぶものではない。
※Fricker(2007)の二つの概念を対比した簡略図です。現代の組織や顧客調査との接続は筆者による解釈です。
情報源を信頼することは、偏見なのか
ここまで、発言の信頼性が不当に低く評価される問題を考えてきました。しかし、ここで一つの反論があります。そもそも、誰が発言したかによって、情報の信頼性を判断するのは自然なことではないでしょうか。
例えば、医学についての説明を聞く場合です。その領域を専門とする研究者や医師の説明と、医学について十分な知識を持たない人の説明を、同じ重みで扱う必要はないでしょう。特定の専門家の発言を重視することは、合理的な判断になる場合があります。では、それは証言的不正義と何が違うのでしょうか。
1951年の情報源の信頼性に関する研究
この問題に関係する研究として、カール・ホブランドとウォルター・ワイスが1951年に発表した『The Influence of Source Credibility on Communication Effectiveness』があります。この研究では、情報を伝える相手についての信頼性が、受け手の態度にどのような影響を与えるのかを調べました。
研究者たちは、信頼性が高いと受け止められる情報源と、信頼性が低いと受け止められる情報源によって、伝えられた内容への反応が異なることを示しました。また、時間が経過すると、情報源に関する記憶や評価と、伝えられた内容への反応の関係が変化することも検討しています。
この研究が示しているのは、情報源の信頼性が、人々の受け止め方に影響するということです。ただし、これをもって、話し手の権威が高いほど、その内容が実際に正しいと結論づけることはできません。研究の対象は、情報源についての信頼性が、受け手の態度にどう影響するかという心理学的な問題だからです。
また、心理学でいう情報源の信頼性による態度変化と、フリッカーが論じる認識的不正義は、同じ概念ではありません。前者は、人々の情報処理や説得の過程に関わります。後者は、信用の配分に偏見が入り込むことによって、知識を持つ主体として不当に扱われる問題です。両者を区別することで、発言者の影響をより慎重に考えられると思います。
信頼できそうに見えることと、正しいことは違う
例えば、ある企業が、著名な人物を広告に起用したとします。その人物は、多くの人から信頼されています。その結果、商品についての説明も、受け入れられやすくなるかもしれません。しかし、その人物が商品について正確な専門知識を持っているとは限りません。また、専門知識を持っていたとしても、広告で述べている内容が、十分な根拠に基づいているかは別の問題です。逆に、知名度の低い研究者や専門家が、非常に重要な知見を持っている場合もあります。
だから、発言者の信頼性を判断することは必要ですが、その判断の根拠を確かめる必要があります。
誰が話しているのか。
何について詳しいのか。
その知識を、どのような方法で得たのか。
そして、今回の発言を信じる理由として、何が示されているのか。
こうした問いを分けて考えたいと思います。
専門家の意見は、どうやって評価すればよいのか
この問題について、より直接的に論じた哲学者がいます。アルヴィン・ゴールドマンです。ゴールドマンは2001年の論文『Experts: Which Ones Should You Trust?』で、専門的な知識を持たない人が、複数の専門家の意見をどのように評価すればよいのかを考えました。
これは、実務でも重要な問題です。例えば、企業が新しい技術を導入しようとしているとします。一人の専門家は、導入を推奨しています。しかし、別の専門家は、技術的なリスクが大きいと指摘しています。経営者自身には、両者の専門的な説明をすべて検証できるだけの知識がないかもしれません。このとき、どう判断すればよいのでしょうか。
専門家の意見にも、確認できることがある
ゴールドマンは、専門家の間で意見が分かれる場合、専門知識を持たない人でも参照できる手がかりが存在することを論じました。例えば、専門家が示す議論の内容や根拠。ほかの専門家による評価。その領域での実績。利害関係などの情報です。
専門知識がなくても、
確かめられる手がかりがある
ゴールドマンが論じた、専門家の意見を評価する手がかり
- 議論と根拠どのような議論や根拠を示しているか反論への応答も比べる
- ほかの専門家の評価同じ領域の専門家はどう見ているか全員が同じ誤った情報に依存している可能性もある
- 実績その領域でどのような実績があるか資格・論文数・受賞歴は、正しさの直接の証明ではない
- 利害関係主張によって得をする立場にないか利害や偏りは、判断を歪める要因になり得る
どの手がかりも、主張の正しさを
直接証明するものではない。
専門性には領域がある。何についての専門家なのかも確かめる。
※Goldman(2001)の議論をもとに整理した独自の図です。
特に意識しておきたいのは、専門性には領域があることです。優れたデザイナーが、あらゆる経営判断に精通しているわけではありません。優秀な経営者が、すべての技術的な問題を正確に判断できるとも限りません。
専門家を信頼することと、思考停止すること
ここで大切なのは、専門家の意見を参照することを、自分で考えることの放棄と捉えないことだと思います。私たちは、すべての分野について専門家になることはできません。それでも、専門家が持つ知識を利用することはできます。その際、自分ですべての内容を検証できなくても、情報源の信頼性や、説明の根拠を確かめることは可能です。
例えば、専門家が何を確実な事実として述べ、何を仮説として扱っているのかを確認します。異なる意見がある場合には、どのような前提や証拠の違いによって、結論が分かれているのかを尋ねます。また、その人が専門領域の外にある価値判断まで、専門的な結論として語っていないかも注意したいところです。
技術的に実現可能であることと、それを実行すべきであることは同じではありません。安全性について十分な知識があることと、どの程度のリスクを許容するべきかを一人で決定できることも、同じではありません。専門家が提供できる知識と、意思決定の主体が負う責任は、分けて考える必要があります。
企業がつくる「顧客の声」は、誰の声なのか
ここからは、ブランドやマーケティングの仕事について考えてみたいと思います。企業が新しいブランド戦略を立てるとき、顧客調査を行うことがあります。インタビューやアンケート、購買データなどを使って、顧客が何を求めているのかを理解しようとします。こうした調査には、重要な意味があります。企業側の思い込みだけでは、顧客の経験を十分に理解できないからです。しかし、顧客調査を行えば、必ず顧客の声が適切に反映されるのでしょうか。
企業の言葉でしか答えられない質問
例えば、あるサービスについて、顧客が不満を感じていたとします。企業は、その理由を調べるためにアンケートを用意しました。質問項目には、機能、料金、デザイン、サポート対応などが並んでいます。しかし、顧客が感じていたのは、そうした項目のどれにも十分には当てはまらない違和感だったかもしれません。
例えば、サービスを利用するたびに、自分が十分な知識を持っていないことを責められているように感じる。あるいは、説明されている利用者像が、自分の生活や状況とはかけ離れている。こうした問題は、一般的な満足度調査だけでは見えにくい可能性があります。
このとき、企業は顧客の声を聞いているつもりでも、企業があらかじめ用意した枠組みの中でしか、その声を受け取れていないかもしれません。もちろん、すべての調査が自由回答であるべきだとは思いません。比較可能なデータを得るためには、質問を標準化することにも意味があります。ただし、その調査で捉えられていない経験がある可能性は、考えておきたいと思います。
顧客の発言を、誰が解釈しているのか
もう一つ気になるのは、顧客から得た情報が、組織の中でどのように扱われるかという点です。顧客の発言は、調査担当者の整理や企画書の言葉を通して、少しずつ形を変えていきます。
顧客の声は、
解釈を経るたびに形を変える
顧客の発言
「機能が多すぎて、何を使えばよいかわからない」
調査担当者の整理
「機能の発見性に課題がある」
企画書
「ユーザーのオンボーディングを改善する」
整理の過程で見えなくなるかもしれない違い
解釈A機能の場所がわからなかった
解釈B機能を使う目的が理解できなかった
発言と解釈を分けて記録する
- 01発言顧客は何と言ったのか
- 02解釈そこから何がわかると考えたのか
- 03別の解釈ほかにどのような解釈ができるのか
※筆者が設定した仮想例です。解釈Aと解釈Bは似ていますが、改善方法は異なります。
この整理が適切な場合もあります。しかし、整理の過程で、顧客が経験していた問題の一部が見えなくなる可能性もあります。だから私は、調査結果を整理するときには、顧客の発言そのものと、分析者の解釈をできるだけ区別しておきたいと思います。
これらを分けて扱うことで、企業にとって都合のよい説明だけを残してしまうことを避けられるかもしれません。もちろん、これはフリッカーが直接提唱したマーケティング調査の手法ではありません。認識的不正義の議論を学んだうえで、私自身が顧客理解の仕事に接続して考えたことです。
組織にとっての問題は、意見が採用されないことだけではない
ここで、最初の会議の例に戻ります。若い社員が、重要な意見を述べたとします。しかし、その発言は十分に検討されませんでした。その後、経営者が同じ意見を述べると、組織の方針が変わりました。このような状況が繰り返された場合、何が起こるでしょうか。
信用されない経験は、
沈黙として広がり得る
- 01意見が検討されない評価されないと感じる
- 02本人が発言しなくなるその人の情報が失われる
- 03周囲も発言を控える「言っても意味がない」
- 04一部の知識だけが使われる役職者の言葉で決まる
参加者が多くても、
使われる知識は少なくなる。
※認識的不正義の議論から考えられる組織上のリスクを示した図です。あらゆる企業で必ず生じると実証された因果関係ではありません。
個人の姿勢だけで、問題は解決するのか
フリッカーは、不公正な信用評価を避けるために、聞き手が備えるべき知的・倫理的な徳についても論じました。自分の信用判断に偏見が影響していないかを考えること。話し手を、その人にふさわしい信用によって評価しようとすること。そうした態度には、重要な意味があるでしょう。しかし、個人が注意するだけで十分なのでしょうか。
例えば、会議の進め方そのものが、役職の高い人から順番に意見を述べる仕組みになっていたとします。最初に経営者が方向性を示し、ほかの参加者はそれについて賛成か反対かを述べる。このような会議では、参加者が悪意を持っていなくても、最初の意見に議論が引き寄せられるかもしれません。一方で、各参加者が最初に自分の考えを整理し、それらを比較してから議論を始める方法も考えられます。
もちろん、会議の順番を変えるだけで、信用の不公正な評価をすべて解決できるわけではありません。それでも、情報の評価が個人の善意だけに依存しないよう、仕組みとして考える余地があります。政治哲学者エリザベス・アンダーソンも、2012年の論文で、認識的な公正を個人の徳だけではなく、社会制度の問題として考える重要性を論じています。この視点は、企業の組織運営について考える際にも参考になります。
発言者を匿名にすれば、公平になるのか
では、誰が発言したかによって評価が変わるのであれば、発言者の名前を隠せばよいのでしょうか。例えば、会議の前に全員から意見を集め、誰が書いたのかわからない状態で比較するとします。そのような方法であれば、発言した人の役職や年齢などによって、最初から意見を評価してしまうことを減らせるかもしれません。しかし、匿名化にも限界があります。
発言者の情報が、必要な場合もある
例えば、セキュリティに関する技術的な懸念が示されたとします。その発言が、実際のシステムを調査したエンジニアによるものなのか。それとも、詳しい知識がない人による推測なのか。その違いは、情報の評価に関わります。また、専門家の発言であっても、どのような調査を行い、どのような根拠に基づいているのかを確認する必要があります。匿名化によって、偏見の影響を減らせる場合がある一方、評価に必要な情報まで失われる可能性もあるのです。
したがって、発言者の情報をすべて消すことが、常に公平な判断につながるとは限りません。ここで考えたいのは、情報を残すか消すかという二択ではなく、何を判断するために、話し手についてのどの情報が必要なのかということです。
何を判断するかで、
必要な発言者の情報は変わる
匿名化は偏見の影響を減らし得る一方、評価に必要な情報まで失う可能性がある
- アイデアを集める役職を伏せる立場による先入観を減らす
- 技術的リスクを判断する専門性と調査方法を確認する根拠の質が評価に関わる
- 顧客体験を理解する置かれた状況を残す文脈が経験の意味を左右する
※筆者による整理です。望ましい設計は、目的や段階によって変わります。
発言の機会が平等であれば、十分なのか
もう一つ、考えておきたいことがあります。例えば、会議で全員に3分ずつ発言時間を与えたとします。発言する機会は、形式的には平等です。しかし、それだけで、すべての情報が公平に扱われたと言えるでしょうか。
ある人の発言には、詳しい質問がされます。別の人の発言は、十分に検討されずに次の話題へ進みます。そのような状況があれば、発言時間が同じでも、実際に受け取られる信用には差があるかもしれません。もちろん、すべての発言について同じ長さの議論を行う必要があるわけではありません。内容によって、重要性は異なるからです。必要なのは、発言時間を機械的に揃えることではなく、判断に重要な情報について、適切な理由に基づいて評価することなのでしょう。
私は、ここに会議設計の難しさがあると思います。
話す機会を用意すること。
発言を聞くこと。
発言の根拠を評価すること。
そして、その結果を意思決定に反映すること。
これらは、別々の問題です。
「その人が言ったから」ではなく、「なぜ信じるのか」を説明する
誰が言ったかを見る。
その理由まで確かめる
話し手の知識を利用しながら、不当に低い信用評価を避けるための判断フレーム
Decision Principle
その人の立場ではなく、妥当な理由にふさわしい信用を与える
専門性を無視せず、権威への無条件な追従も避ける。
※Goldman(2001)の専門家への信頼と、Fricker(2007)の認識的不正義を参考に作成した筆者独自の判断フレームです。両者が共同で提唱した手順ではありません。
今回の議論を通して、私自身が仕事で意識したいことを整理してみます。まず、発言の内容と、発言者についての情報を分けて確認したいと思います。ただし、完全に切り離せるわけではありません。ある事実についての証言では、その人が実際に何を経験したのかという情報が重要です。専門的な判断では、その領域についての知識や実績も関係します。だから、発言者の情報を無視するのではなく、何を信頼性の根拠として使っているのかを明確にする必要があります。
次に、発言が十分に検討されなかったとき、その理由を確認したいと思います。
根拠が不足していたのでしょうか。
今回の判断に関係がなかったのでしょうか。
それとも、誰が言ったのかによって、最初から重要性を低く見積もっていたのでしょうか。
この区別ができなければ、合理的な判断と、不公正な信用評価を見分けることが難しくなります。
さらに、顧客調査や組織の意思決定では、そもそもどのような情報を集めるのかを考えたいと思います。誰の経験が、質問や評価の枠組みに反映されているのか。どのような人の声が、最初から想定されていないのか。そして、集めた声を、誰がどのように解釈しているのか。こうしたことも、確認する必要があるでしょう。
ただし、すべての意見を同じように採用することが公平なのではありません。誤った情報は訂正する必要があります。十分な根拠のない主張については、その限界を指摘するべきでしょう。専門家の判断が必要な問題では、専門性も尊重しなければなりません。
公平に扱うことと、無条件に受け入れることは違います。その違いを明確にすることが、認識的不正義の議論から学べる大切な視点だと思います。
おわりに|意見を聞くことと、知識として扱うこと
会議では、さまざまな人が意見を述べます。経験豊富な人もいれば、まだ仕事を始めたばかりの人もいます。専門家もいれば、専門領域の外から問題を見ている人もいるでしょう。そして、それぞれが異なる情報や経験を持っています。こうした人々が集まることには、意味があります。一人では気づけない問題を発見し、異なる視点から判断できる可能性があるからです。
しかし、参加者が多様であることと、その多様な知識が利用されることは同じではありません。情報が発言されなければ、議論に使うことはできません。そして、発言されていたとしても、話し手が不当に信用されなければ、その情報は十分に検討されないかもしれません。フリッカーの認識的不正義の議論は、ここに重要な問題があることを教えてくれます。
私たちは、他人から知識を得ながら生きています。そのため、誰の話を信じるのかという判断を避けることはできません。しかし、その判断には、偏見が入り込む可能性があります。そして、偏見によって誰かの発言を不当に低く評価することは、単に情報を見落とすだけではなく、その人を知識の主体として適切に扱わないという問題にもなります。
一方、専門家への信頼を論じたゴールドマンの議論からは、話し手の知識や実績を考慮すること自体には、合理的な理由があると考えられます。だから、私は「誰が言ったかで判断してはいけない」という単純な結論にはしたくありません。むしろ、誰が発言したのかによって判断が変わるのであれば、その理由を確かめたいと思います。
専門性があるからでしょうか。
その問題を直接経験しているからでしょうか。
十分な根拠を示しているからでしょうか。
それとも、その人が経営者だから、著名人だから、あるいは自分と似た立場の人だからというだけなのでしょうか。
この違いを意識することで、他人の発言への向き合い方も変わるかもしれません。そして、組織の意思決定でも、何人が意見を述べたのかだけでなく、どのような理由によって、その意見が採用されたのかを考えたいと思います。
人の意見を公平に扱うことは、すべての意見を同じように信じることではありません。それぞれの主張を、その内容や根拠にふさわしく評価することなのでしょう。
今回、特に印象に残ったのは、知識をめぐる不公正が、発言を聞かなかったという形だけでなく、発言した人を信用しなかったという形でも生じ得ることでした。そして、それが続けば、人々が持っている知識を、組織全体で利用できなくなる可能性もあります。では、私たちは日々の仕事の中で、何を見落としているのでしょうか。
最後に、一つ問いを残しておきたいと思います。
昨日は取り上げなかった意見を、今日、役職の高い人が同じように話したとしたら、私たちは同じ評価をするでしょうか。
参考文献・出典
企業の会議、ブランド戦略、顧客調査についての事例は筆者が設定した仮想例です。特に、組織内の役職差や調査上の言語化不足を、フリッカーの認識的不正義と無条件に同一視しないよう区別しています。
- Fricker, M. (2007). Epistemic Injustice: Power and the Ethics of Knowing(新しいタブで開きます). Oxford University Press. 証言的不正義と解釈的不正義を論じた基本文献。
- Fricker, M. (2007). Testimonial Injustice(新しいタブで開きます). In Epistemic Injustice, Chapter 1, pp. 9–29. 発言者に対する偏見と信用の不当な過小評価について。
- Fricker, M. (2007). Hermeneutical Injustice(新しいタブで開きます). In Epistemic Injustice, Chapter 7, pp. 147–175. 社会的に共有された解釈資源と、構造的な不平等について。
- Goldman, A. I. (2001). Experts: Which Ones Should You Trust?(新しいタブで開きます) Philosophy and Phenomenological Research, 63(1), 85–110. 専門知識を持たない人が専門家の証言をどのように評価するかについて。
- Hovland, C. I., & Weiss, W. (1951). The Influence of Source Credibility on Communication Effectiveness(新しいタブで開きます). Public Opinion Quarterly, 15(4), 635–650. 情報源の信頼性と説得効果に関する研究。
- Anderson, E. (2012). Epistemic Justice as a Virtue of Social Institutions(新しいタブで開きます). Social Epistemology, 26(2), 163–173. 認識的な公正を個人だけでなく制度から検討する論文。
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, Epistemological Problems of Testimony(新しいタブで開きます)。証言によって知識を得ることの正当化、専門性、証言の認識論に関する学術解説。
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, Social Epistemology(新しいタブで開きます)。証言、専門知識、認識的不正義を含む社会認識論の学術解説。