ある企業が、自社サービスの利用状況について調査を行ったとします。アンケートでは、回答者の80%が「使いやすい」と答えました。数値は正しく集計されています。回答も改ざんされていません。担当者は、その結果を経営会議で報告します。
「利用者の8割が、現在のサービスを使いやすいと評価しています」
説得力のある結果に見えます。ところが、調査対象を詳しく確認すると、回答者の多くが、日頃からデジタルサービスを使い慣れている人たちでした。調査への協力を依頼したのも、すでにサービスを利用している顧客が中心です。一方で、登録画面の途中で利用をやめてしまった人や、操作が難しくて使い始められなかった人は、ほとんど調査に参加していません。
このとき、「利用者の80%が使いやすいと評価している」という報告は、間違っているのでしょうか。少なくとも、調査に回答した人々についての集計としては、正しいのかもしれません。しかし、その結果をもって「このサービスは、誰にとっても使いやすい」と結論づけるのであれば、話は変わります。数値が間違っていなくても、その数値から何を言えるのかについては、検討する必要があります。
そして、ここで気になることがあります。
調査した人も、報告を聞いた人も、自分たちは客観的に判断していると思っていたのではないでしょうか。
前回は、正しい情報であっても、誰が発言したかによって信頼されない場合があることを考えました。今回は、その一歩手前にある問題について考えたいと思います。
Questions正しい意見でも、誰が言ったかで無視されるのはなぜか?ミランダ・フリッカーの「認識的不正義」から、発言の信頼性と組織の知識を考える。
そもそも、何を調べるのか。
誰に尋ねるのか。
どのような答えを選択肢として用意するのか。
そして、集めた情報のどこに注目するのか。
そうした判断は、どのように決まっているのでしょうか。私たちが「客観的な調査」と呼んでいるものにも、調査を行う人の立場や価値観が影響しているのかもしれません。
この問題を考えるために、今回はトマス・ネーゲル、ダナ・ハラウェイ、サンドラ・ハーディング、ヘレン・ロンジーノの議論を読んでみたいと思います。なお、冒頭のサービス調査は論点を説明するための仮想例であり、実際の調査結果ではありません。
客観的であるとは、自分の立場を離れることなのか
私たちは普段、「客観的に考える」という言葉を使います。
感情に流されず、事実に基づいて判断すること。
自分の好き嫌いではなく、ほかの人にも確かめられる根拠を重視すること。
一つの立場に偏らず、広い視点から問題を捉えること。
このような姿勢を、客観的だと考えることが多いのではないでしょうか。私は、こうした考え方には大切な意味があると思います。
例えば、ある広告が成功したかどうかを判断するとします。担当者が、その広告を気に入っていたという理由だけで成功だと判断するのは、適切ではないでしょう。反対に、自分の好みに合わなかったという理由だけで、失敗だったと考えることにも問題があります。何を目的とした広告だったのか。どのような結果が得られたのか。ほかの施策と比較すると、どのような違いがあるのか。こうしたことを確認する必要があります。
ただ、そこでもう一つの疑問が生まれます。事実を確認し、数値を使って分析したとしても、私たちは自分の立場から完全に離れることができるのでしょうか。
ネーゲルの「どこでもない場所からの眺め」
1986年、哲学者トマス・ネーゲルは『The View from Nowhere』という著作を発表しました。日本語では、その表題が「どこでもない場所からの眺め」などと訳されることがあります。ネーゲルが考えたのは、個人の主観的な視点と、そこから距離を取った客観的な視点との関係です。
私たちは、それぞれ特定の場所に生きています。自分の身体があり、経験があり、関心があります。一方で、人間には、自分の立場から少し離れ、ほかの人々や世界を含む、より広い視点から物事を理解しようとする能力があります。
自分にはこのように見えている。しかし、別の場所から見れば違うかもしれない。ほかの人にとっては、どう見えるのだろうか。そう考えることで、私たちは自分の経験を、より広い世界の一部として捉えようとします。ネーゲルは、このような客観化の働きを重視しました。
しかし、主観的な視点を単純に捨て去るべきだと論じたわけではありません。『The View from Nowhere』は、主観的な視点と客観的な視点をどのように調和させられるのか、そして両者の間に解消できない緊張があるのではないかを考えた著作でもあります。ここを、単純に「ネーゲルは完全に中立な視点が可能だと考えた」と理解してしまうのは、不正確でしょう。
それでも、彼の議論は、客観性について考える出発点になります。自分の立場から距離を取ろうとすることと、自分の立場を完全になくすことは、同じではない。私は、この区別が重要だと思います。
ハラウェイは、なぜ「どこから見ているか」を重視したのか
1988年、科学史家・思想家のダナ・ハラウェイは、『Situated Knowledges: The Science Question in Feminism and the Privilege of Partial Perspective』という論文を発表しました。ここで重要になるのが、「位置づけられた知(situated knowledges)」という考え方です。
ハラウェイは、知識を生み出す人間が、社会的・歴史的・身体的な条件から切り離されているわけではないことを重視しました。私たちは、常にどこかから世界を見ています。何を経験してきたのか。どのような社会的な立場にいるのか。どのような道具や概念を使って観察しているのか。そうした条件が、何を見ることができ、何を理解できるのかに関係しています。
すべてを見渡せる視点は存在するのか
例えば、一つの街について考えてみます。都市計画を担当する人は、人口や交通量、土地利用などのデータを確認できるかもしれません。その街で働く人は、通勤時間帯の混雑や、仕事帰りの買い物のしやすさを知っているでしょう。長く暮らしている人は、季節によって変わる街の様子や、周辺の人間関係について、別の知識を持っているかもしれません。
それぞれが、同じ街について話しています。しかし、見えているものは完全には一致しません。だからといって、一人ひとりが見ている街は別々の現実であり、どの説明も同じように正しいと言えるのでしょうか。
ハラウェイの議論は、そのような単純な相対主義とは異なります。彼女は、あらゆる知識が特定の視点に位置づけられていることを認めながら、現実の世界について、責任を持って説明しようとする態度を重視しました。
どこからでもすべてを見渡せると主張するよりも、自分がどこから見ているのかを明らかにする。
何を知ることができ、何を知ることができないのかを認識する。
異なる視点との関係を通して、理解を深めようとする。
そのような態度によって、客観性を考え直そうとしたのです。
「自分の視点だから正しい」わけではない
ここで誤解したくないのは、位置づけられた知という考え方が、個人の経験を無条件に正しい知識として認めるものではないということです。例えば、ある人が「私はそう感じた」と話したとします。その人が実際にそう感じたという経験は、尊重すべきでしょう。しかし、その経験について本人が行った説明や、その原因についての判断が、必ず正しいとは限りません。自分の経験を解釈するときにも、思い込みや誤りは生じ得ます。
また、複数の人が同じ出来事について異なる説明をしている場合、それらがすべて同じ意味で正しいとは限りません。だから、ハラウェイの議論を「どの立場からの見方も同じように正しい」と理解するべきではないのでしょう。むしろ、自分の視点が部分的であることを認めるからこそ、ほかの視点や証拠との関係を考える必要があります。
私は、そこにこの議論の重要さがあると感じます。自分が見ているものを信じることと、自分には見えていないものがあると考えること。この二つは、矛盾しないのかもしれません。
誰もが、どこかから世界を見ている
異なる立場は、同じ対象の異なる側面に接近する手がかりになる
同じWebサービス
一つの対象に対して、異なる知識が存在する
- 利用者使うときの困難実際の操作・不便さ
- 開発者実装と技術的条件構造・仕様・制約
- 事業担当者継続性と成果売上・運用・戦略
視点を照合し、根拠を検証する
部分的な視点を認めることは、
客観性を諦めることではない。
自分には見えないものを確認し、より妥当な説明へ近づく。
※ハラウェイ(1988)の「位置づけられた知」を参考にした筆者独自の概念図です。3つの職種・役割による整理は原典の分類ではありません。
中立であることと、偏りを持たないことは同じなのか
では、研究や調査を行う人が、自分の立場を明らかにすれば、それだけで客観的になれるのでしょうか。ここでも、もう少し考える必要があります。
例えば、企業のサービス調査を行うとします。担当者は、自社サービスに愛着を持っています。もちろん、その愛着があるからといって、調査結果が必ず歪むわけではありません。自社の商品を深く理解しているからこそ、重要な問題に気づけることもあるでしょう。しかし、その愛着によって、都合のよい結果を重視してしまう可能性もあります。
この場合、「自分は自社サービスに愛着がある」と認めるだけでは、問題は解決しません。実際の調査や分析で、その立場がどのような影響を与えているのかを確かめる必要があります。
調査には、数値を集める前から判断がある
例えば、満足度調査を行う場合です。データを分析する前から、調査にはいくつもの選択が含まれています。
数値を集める前から、
調査には判断が含まれている
- 01誰に尋ねるか調査対象を決める既存の利用者か、始めたばかりの人か。途中で離脱した人まで含めるか。
- 02何を尋ねるか質問項目を決める使いやすさか、機能の充実度か。満足度や継続利用の意向か。
- 03どう集計するか分類と集計の方法を決める平均値を見るか。回答者の属性ごとの違いを確かめるか。
その選択によって、
何がわかるのかが変わる。
※満足度調査を例にした筆者による整理です。
もちろん、だからといって、アンケート調査は主観的で価値がないということにはなりません。むしろ、適切に設計された調査は、自分たちの思い込みを検証するために役立ちます。ただし、調査には設計した人の問いが含まれていることを理解する必要があります。何を測っているのかがわからなければ、どれほど正確な数値であっても、その意味を誤って解釈してしまう可能性があるからです。
ハーディングの「強い客観性」は、何が強いのか
1993年、哲学者サンドラ・ハーディングは『Rethinking Standpoint Epistemology: What Is “Strong Objectivity”?』という論考を発表しました。ここで論じられたのが、「強い客観性(strong objectivity)」という考え方です。
「強い」という言葉からは、主観的な要素を徹底的に取り除くことを想像するかもしれません。しかし、ハーディングの議論は、少し違う方向に進みます。彼女が問題にしたのは、研究者が自分自身の社会的な立場や、研究を支える前提を十分に検討しないまま、客観的な知識を得たと考えてしまうことでした。
誰の経験が、研究の出発点になっているのか
例えば、社会についての研究を行うとします。そのとき、社会的に有利な立場にいる人々の経験ばかりを出発点にしていたら、どうなるでしょうか。ある制度を利用する際の不便さが、特定の立場の人々にしか見えていない場合もあります。また、社会の仕組みから利益を得ている人にとっては、その仕組みが当然のものとして感じられるかもしれません。一方、その制度によって不利益を受けている人々は、ほかの人が意識しない問題を経験している可能性があります。
ハーディングは、社会的に周縁化された人々の生活を研究の出発点とすることの重要性を論じました。これは、単に多様な意見を集めればよいという話ではありません。
誰が知識をつくっているのか。
その人々が、どのような社会的な関係の中にいるのか。
研究の目的や問いそのものが、どのような前提によって形成されているのか。
そうしたことまで、批判的に検討する必要があるという議論です。
不利な立場にいる人の見方は、必ず正しいのか
ただし、ここでも重要な反論があります。社会的に不利な立場にいる人の見方は、常に正しいのでしょうか。そうとは限らないはずです。誰でも、自分の経験を誤って解釈することがあります。また、同じ社会的な立場にいる人々の間でも、経験や考え方が一致するとは限りません。この問題は、立場理論(standpoint theory)に対する重要な批判の一つです。
実際、立場理論では、社会的な立場に置かれていることだけで、優れた知識が自動的に得られるとは考えない議論が発展してきました。特定の立場から得られる経験を、社会構造への批判的な検討につなげることが重要になるのです。そして、ある立場がどのような問題について、どのような認識上の利点を持つのかは、具体的に確かめる必要があります。
例えば、サービスを使うときに困難を経験している人は、その困難について、ほかの人にはない知識を持っているかもしれません。しかし、その人が、システムの設計や実装に必要な技術的知識まで持っているとは限りません。
だから、私はハーディングの議論を、ある人の経験を無条件に優先する方法として理解したくありません。むしろ、普段の調査や意思決定では出発点にされにくい経験から問題を捉え直し、自分たちが当然だと思っていた前提を検討するための思想として受け取りたいと思います。
客観性は、一人の研究者が持つ性質なのか
ここまでの議論では、個人がどのような立場から世界を見ているのかを考えてきました。しかし、もう一つの方向から、客観性を考えた哲学者がいます。ヘレン・ロンジーノです。
ロンジーノは1990年の『Science as Social Knowledge: Values and Objectivity in Scientific Inquiry』で、科学的な知識が社会的な過程を通して形成されることを論じました。私たちは、科学的な知識を、優れた研究者が個人として厳密に観察し、正しく考えることで生まれるものとして捉えがちです。もちろん、個人の能力や研究方法は重要です。しかし、ロンジーノは、それだけでは客観性を十分に説明できないと考えました。
同じデータから、異なる説明が生まれることがある
例えば、ある現象について、二つの理論が提案されたとします。どちらも、現在得られているデータと矛盾していません。しかし、何を重要な原因と考えるかについては、違いがあります。このような場合、データだけでは、どちらの説明を採用するべきかが十分に決まらないことがあります。
理論を選ぶときには、研究者が持つ背景的な前提や、説明の方法、研究の目的などが関わります。その前提には、研究者が意識していない社会的な価値観が含まれている可能性もあります。ロンジーノは、こうした前提を、ほかの研究者たちによる批判的な検討の中に置くことを重視しました。
特定の研究者が、自分だけであらゆる偏りを取り除こうとするのではありません。異なる視点から、証拠や方法、推論の前提を検討することで、個人には見えなかった問題を明らかにしていくのです。ここでの客観性は、単に研究者個人の心の中にある態度ではありません。知識を生み出す集団が、どのように批判を扱っているのかという問題にもなります。
批判を聞くだけでは、十分ではない
ロンジーノは後年の『The Fate of Knowledge』(2002年)などで、知識を生み出す共同体に必要な条件をさらに整理しました。
特に興味深いのは、批判が存在することと、その批判が実際に検討されることを区別している点です。形式上は意見を述べる機会があっても、ほかの研究者たちがその意見を真剣に検討しなければ、十分ではないでしょう。批判によって、実際に前提を見直す余地があることが重要になります。
私は、ここに客観性を考えるうえでの重要な転換があると感じました。客観的になることは、一人で偏りのない視点に到達することだけではない。ほかの人から、自分の前提を問い直してもらえる状態をつくることでもあるのです。
異論があることより、
異論によって検討が進むこと
ロンジーノが重視した、社会的な批判が機能するための4つの条件
- 01|Venues批判できる場証拠・方法・前提について、異論を述べられる。
- 02|Uptake批判への実質的な応答指摘が検討され、必要なら考え方が変わる。
- 03|Public Standards公開された評価基準何を根拠に評価するか、共有されている。
- 04|Tempered Equality適切な知的権威の平等参加資格のある人の批判を、立場だけで軽視しない。
形式だけの議論「意見は聞きました」
検証が働く議論「その指摘で前提を見直しました」
批判のすべてを
採用するという意味ではない。
根拠の弱い批判や、すでに検証された問題を繰り返す批判もある。必要なのは、適切な基準に基づいて応答できること。
※Longino(1990、2002)の科学的共同体に関する議論を簡略化した図です。4条件はロンジーノの理論に基づき、最下段の会議での言い換えは筆者による応用です。
「顧客の平均像」は、誰の生活を表しているのか
ここからは、これらの議論を、マーケティングやサービスデザインの仕事に接続して考えてみたいと思います。企業は、顧客を理解するために、さまざまな情報を集めます。年齢や居住地、利用頻度。購買履歴やアンケート。アクセス解析やインタビュー。こうした情報を使うことで、自社のサービスが、誰にどのような価値を提供しているのかを理解しようとします。それ自体は、重要な仕事です。しかし、そこには一つの危険もあると思います。
平均的な利用者という想定
例えば、ある企業が「平均的な利用者」を想定して、Webサービスの操作画面を設計したとします。その利用者は、スマートフォンを日常的に使っています。必要な情報を検索し、表示された内容を読んで、問題なく手続きを進めることができます。
しかし、現実の利用者は、必ずしもそのような人ばかりではありません。小さな文字を読むことが難しい人もいるでしょう。複数の言語が混在する環境で、情報を理解しようとする人もいます。操作に慣れていない人や、限られた時間の中で手続きを進める必要がある人もいるかもしれません。
もちろん、一つのサービスで、すべての利用者のあらゆる条件に完全に対応することは難しいでしょう。また、すべての違いを調査することにも、費用や時間が必要です。しかし、どのような利用者を中心に設計しているのかを明確にしないまま、「誰にとっても使いやすい」と考えてしまうことには問題があります。
多数派にとっての使いやすさが、全体の使いやすさになる
例えば、サービスの利用者の多くが、ある画面を問題なく操作できていたとします。その結果、満足度も高くなりました。しかし、操作が難しかった人は、最初の段階で利用をやめていたかもしれません。この場合、現在も利用を続けている人だけに調査を行えば、サービスの評価は高く見える可能性があります。
だからといって、調査結果が間違っているとは限りません。継続利用している人々にとって、使いやすいサービスであることは、事実かもしれません。ただし、その結果を、利用を検討した人や、利用できなかった人を含む全体へ広げることには、注意が必要です。
ここで重要なのは、調査の対象になった人と、企業が理解したい人々の範囲が一致しているかどうかです。統計学的には、標本の選び方や測定方法に関わる問題として検討できます。一方、ハラウェイやハーディングの議論からは、もう一つ別の問いを考えられます。
そもそも、なぜその人々が調査の対象として選ばれたのでしょうか。
誰にとっての使いやすさが、サービスを評価する基準になっているのでしょうか。
そして、その基準を決める過程に、誰の経験が反映されているのでしょうか。
統計的な方法によって調査の偏りを検証することと、何を知るべきかという問いそのものを検討すること。この二つは、補い合う関係にあると思います。
80%は正しい。
でも、誰の80%なのか
調査対象が限定されている場合、その結果をすべての人に一般化できるとは限らない
Survey Result|サービスの使いやすさ
80% が「使いやすい」
使いやすい 80%それ以外 20%
その数字に含まれる人・含まれない人
Included調査に含まれた人
- すでにサービスを利用している
- アンケートに回答できた
- デジタル操作に慣れた人が多い
Missing調査から漏れた人
- 登録を途中でやめた
- 操作が難しく、使い始めなかった
- 調査に回答できなかった
結論を広げる前に、問いを確認する
調査から言える可能性があること回答者の80%は「使いやすい」と評価した
追加検証が必要なことすべての潜在利用者にも使いやすい
※80%は説明用の仮想値です。標本選択の問題と、ハラウェイ・ハーディングによる「誰の立場から調査しているか」という問題を接続した独自の図解です。
多様な人が集まれば、客観的になれるのか
ここまで、異なる立場から問題を見ることの重要性を考えてきました。では、さまざまな背景を持つ人を集めれば、それだけで客観的な判断ができるようになるのでしょうか。私は、そこにも慎重でありたいと思います。
例えば、ある企業が、多様な専門性を持つ人々によって新しいサービスを開発しようとしたとします。マーケティング担当者、デザイナー、エンジニア、カスタマーサポート担当者が集まっています。さらに、さまざまな利用経験を持つ人々にも意見を聞いています。この体制には、意味があるでしょう。
しかし、集めた意見を、経営者が最初に考えていた方針へ都合よく整理してしまったらどうでしょうか。異なる意見を持つ人が参加していても、その意見が実際の判断に影響しないかもしれません。また、さまざまな意見が出ていたとしても、互いの根拠を十分に検討しないまま、一つの結論を選ぶ場合もあるでしょう。このような状況では、多様な人々が参加しているという事実だけで、判断が客観的になったとは言えません。
多様性と、批判が機能することは違う
ロンジーノの議論を参考にすると、重要なのは、異なる立場の人が存在することだけではありません。その人々が、証拠や前提について批判できること。批判の根拠が、適切に検討されること。そして、その検討によって、必要なら判断が変わり得ること。そうした条件が重要になります。
例えば、デザイナー、エンジニア、マーケティング担当者が、それぞれ異なる指摘をしたとします。このとき、それぞれの指摘を独立した意見として並べるだけでは、十分ではありません。
指摘を並べるだけでなく、
問いを通して互いに検討する
- デザイナー利用者の操作上の困難どの程度の利用者に生じているのか
- エンジニア現在の技術的な制約ほかの実装方法によって解決できるのか
- マーケティング担当者既存顧客に偏った調査対象結果はどの範囲まで一般化できるのか
情報がそろっても、
価値判断が不要になるわけではない。
何を優先するかで価値観が対立するときは、事実に関する判断と、何を重視するかという判断を区別する。
※筆者が設定した仮想例です。各担当者の指摘と、そこから立てたい問いを並べています。
もちろん、異なる専門家が集まっても、必ず一つの答えに到達するわけではありません。客観的な情報を増やすことは大切です。しかし、情報がそろえば判断が自動的に決まるわけではないのです。
立場を明らかにすることは、客観性を弱めるのか
ここまでの議論には、一つの反論が考えられます。誰もが特定の立場から世界を見ているとすれば、結局、客観的な知識など得られないのではないでしょうか。ある人にとって正しいことが、別の人にとっては正しくない。それぞれ異なる立場があるのだから、何を信じるかは自由でよい。そのような結論になるのでしょうか。私は、そうは考えません。
立場によって見え方が違っても、事実は検証できる
例えば、あるサービスで、利用者が申し込み途中に離脱したとします。利用者と企業の担当者では、その原因の捉え方が異なるかもしれません。しかし、それだけで、どちらの説明も同じように正しいと考える必要はありません。
見え方が違っても、
事実は確かめられる
利用者の認識申し込み方法が難しかった
担当者の認識必要な情報を十分に読まなかった
根拠を増やし、仮説を比較する
- 01操作を観察する実際にどう操作しているか
- 02時間を調べるどの画面で時間がかかったか
- 03理解を確かめる表示された説明が伝わっていたか
- 04再現を検証する別の利用者でも同じことが起こるか
すべての原因を、
完全に特定できるとは限らない。
それでも、根拠を増やし、仮説を比較することはできる。
※筆者が設定した仮想例です。
私は、客観性を考える際に、この姿勢を失いたくありません。自分の立場を認識することは、事実を確かめることを放棄する理由にはならないはずです。むしろ、自分の立場によって何が見えにくくなっているかを考えることで、調査の方法や検証の範囲を見直せるかもしれません。
どの視点にも、自動的な正しさはない
同時に、ある立場にいる人の経験を、無条件に正しいものとして扱うことにも注意したいと思います。例えば、顧客は、自分がサービスを利用した経験について、重要な情報を持っています。しかし、その経験の原因について、必ずしも正確に説明できるとは限りません。企業の担当者も、サービスの設計意図や技術的な制約について、重要な知識を持っています。しかし、その知識だけで、顧客がどのような問題を経験しているのかを理解できるとは限りません。
異なる立場には、それぞれ知ることのできるものと、知りにくいものがあります。だから、どちらか一方の視点を、最初から正しいものとして選ぶのではありません。それぞれの情報を、何を根拠にしているのかに応じて検討する必要があります。
ハラウェイ、ハーディング、ロンジーノの議論は、異なる理論的な立場にあります。そのため、三人がまったく同じ客観性の定義を採用したかのように整理するべきではありません。ただ、少なくとも私は、彼女たちの思想から、客観性を単に個人の偏りのなさとして考えることには限界があると感じました。
知識を生み出す人の立場。
研究や調査を支える前提。
異なる人々による批判の可能性。
そうした条件を含めて考えることで、客観性をより深く理解できるのではないでしょうか。
調査や企画の前に、何を問い直したいか
今回の学習を踏まえて、私自身が調査や企画を進めるときに確認したいことを整理してみます。
調査や企画の前に問い直したい、
四つのこと
※今回参照した思想家たちが共同で提唱した調査手法ではなく、筆者が仕事で使うために整理した問いです。
すべての案件で、同じ手順を実施する必要があるわけではないでしょう。調査の目的や規模、利用できる予算によって、検討の深さも変わります。それでも、判断の根拠を確認するときに、自分たちの視点だけで世界を説明していないかという問いは、持ち続けたいと思います。
おわりに|客観的であるために、自分の立場を知る
客観的に考えることは、大切です。自分の好みや感情だけで判断するのではなく、事実を確かめ、根拠に基づいて考える。そのような態度には意味があります。しかし、今回の学習を通して、客観性を単に自分の立場を忘れることとして考えるのは、十分ではないと感じました。
ネーゲルは、主観的な視点から距離を取り、より客観的な理解へ向かおうとする人間の能力を考えました。同時に、私たちが持つ主観的な視点を、単純に消し去れるわけではないことも問題にしています。ハラウェイは、知識が常に特定の立場から生み出されることを重視し、自分がどこから世界を見ているのかに責任を持つ客観性を考えました。ハーディングは、研究する側の社会的な立場や、研究の出発点そのものを批判的に検討することの重要性を論じました。そしてロンジーノは、個人の判断だけではなく、証拠や前提を互いに批判できる社会的な過程に、客観性の重要な条件を見いだしました。
それぞれの議論は、客観性について同じ答えを出しているわけではありません。しかし、私には共通して考えられることがあります。
客観的であることは、自分には立場がないと考えることではなく、自分の立場が判断にどう影響しているかを確かめることでもあるのではないか。
これは、調査やデザイン、ブランド戦略を考えるときにも重要な問いだと思います。どれほど正確な数値を集めても、何を測ったのかを理解しなければ、結果を正しく使うことはできません。多様な意見を集めても、その意見がどのような根拠を持っているのかを検討しなければ、判断は深まりません。そして、自分たちが見落としているものがある可能性を考えなければ、新しい情報に出会う機会を逃してしまうかもしれません。
私は、客観性を諦めたいわけではありません。むしろ、客観性について考えることで、もっと慎重に知ろうとする姿勢を持ちたいと思いました。
自分には何が見えていて、何が見えていないのか。
どのような立場から、何を問題として考えているのか。
そして、ほかの人々の経験や批判によって、何を確かめ直すことができるのか。
こうした問いを持つことが、よりよい理解につながるのではないでしょうか。
冒頭のサービス調査では、回答者の80%が「使いやすい」と答えました。その数値が正しいとしても、私は今なら、もう一つのことを尋ねたいと思います。
その調査には、誰の経験が含まれていて、誰の経験がまだ含まれていないのでしょうか。
参考文献・出典
冒頭の満足度80%、サービス調査、都市や企業の事例は、概念を理解するために筆者が作成した仮想例です。原典の議論と、マーケティング・デザインへの応用は区別して記述しています。
- Nagel, T. (1986). The View from Nowhere. Oxford University Press. 主観的な視点と客観的な視点の関係、および客観化の限界を扱った著作。書籍情報:Google Books(新しいタブで開きます)
- Haraway, D. (1988). Situated Knowledges: The Science Question in Feminism and the Privilege of Partial Perspective(新しいタブで開きます). Feminist Studies, 14(3), 575–599. 知識の位置づけられた性質と、部分的な視点に責任を持つ客観性についての論文。
- Harding, S. (1993). Rethinking Standpoint Epistemology: What Is "Strong Objectivity"? In Feminist Epistemologies, pp. 49–82. Routledge. 研究の出発点と、研究者自身の立場への批判的検討を重視する論考。書誌情報・解説:Diversity Reading List(新しいタブで開きます)
- Longino, H. E. (1990). Science as Social Knowledge: Values and Objectivity in Scientific Inquiry(新しいタブで開きます). Princeton University Press. 科学的知識の形成と、背景的な前提、社会的な批判の役割を扱った著作。
- Longino, H. E. (2002). The Fate of Knowledge(新しいタブで開きます). Princeton University Press. 批判を受け入れる共同体の条件と、社会的な知識形成を扱った著作。
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, Feminist Social Epistemology(新しいタブで開きます)(2018年改訂)。位置づけられた知、立場理論、強い客観性、社会的過程としての客観性についての学術解説。
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, Feminist Epistemology and Philosophy of Science(新しいタブで開きます)。立場理論とその批判、知識における社会的な位置、研究方法の問題についての学術解説。