ある企業が、人事評価制度を見直したとします。それまでは、上司の主観によって評価が左右されることがありました。そこで、全社員に共通する明確な評価基準を設けることにしました。
仕事の成果を数値化し、達成度に応じて評価する。年齢や勤続年数ではなく、実際のアウトプットによって報酬や昇進を決める。同じ仕事で同じ成果を上げたなら、同じように評価する。この制度は、一見すると公平に思えます。
しかし、しばらく運用していると、あることがわかりました。評価の高い社員には、売上規模の大きな顧客や、新しい事業に関わる仕事が集中しています。一方、別の社員は、定型的な業務を長く担当しており、大きな成果を示せる機会が限られています。
評価基準は同じです。上司が意図的に差別しているわけでもありません。それでも、実際に評価される成果を生み出す機会には、違いがありました。このとき、同じ基準で評価しているから公平だと言えるのでしょうか。
もちろん、成果の大きい社員を高く評価することには理由があります。組織への貢献が異なるなら、評価や報酬に差が生じることも自然でしょう。しかし、その成果が本人の能力や努力だけでなく、最初に与えられた仕事や環境にも左右されているとしたら、どう考えればよいのでしょうか。
同じルールを適用することと、公平な競争が成立していることは、同じなのか。
この問いを考えていると、「公平」や「正義」という言葉が、思っていたよりも複雑な概念であることに気づきます。今回は、古代ギリシャの哲学者プラトンと、20世紀の政治哲学者ジョン・ロールズを中心に、正義や機会の平等について考えてみたいと思います。なお、冒頭の企業と評価制度は、問題を説明するための仮想例です。
公平とは、全員を同じように扱うことなのか
私たちは普段、さまざまな場面で「公平」という言葉を使っています。
同じ仕事をした人には、同じ報酬を支払う。
同じ評価基準によって、社員を評価する。
誰もが同じ条件で応募できるようにする。
特定の人だけを優遇しない。
こうした考え方には、十分な理由があります。人によって恣意的にルールを変えれば、制度への信頼は失われるでしょう。上司に気に入られた人だけが昇進する組織では、社員が安心して仕事に取り組むことも難しくなるかもしれません。だから、明確なルールをつくり、同じ基準で判断することは重要です。
しかし、全員に同じルールを適用したとしても、その結果が公平になるとは限りません。例えば、同じ試験を受ける二人を考えてみます。一人は、十分な教育や学習環境を得られる家庭で育ちました。もう一人は、経済的な事情によって、学ぶための時間や環境が限られていました。
試験当日、二人には同じ問題が与えられます。制限時間も採点基準も同じです。この試験は、手続きとしては公平に見えます。しかし、試験を受けるまでの条件が大きく違っていたことは、考慮しなくてよいのでしょうか。
さらに、逆の問題もあります。二人の背景に違いがあるからといって、試験の結果を同じにするべきなのでしょうか。能力や習熟度が必要な仕事であれば、実際にその能力を持っているかどうかを確かめる必要もあります。
このように考えると、公平には少なくとも異なる問いが含まれていることがわかります。
どのようなルールで競争するのか。
競争するための機会は、どの程度保障されているのか。
そして、競争の結果として生まれた差を、どのように扱うべきなのか。
これらは、別々に考える必要がありそうです。
同じルールと、同じ機会は違う
評価制度が共通でも、成果を生み出す条件には違いがある
社員A
大規模案件を担当
- 重要案件
- 経験豊富な上司
- 成長機会あり
社員B
定型業務を担当
- 重要案件への参加が限定的
- 学習機会が限定的
Common Rule/共通の評価基準
同じ成果指標で評価する
社員A
高評価
社員B
低評価
確認したいのは、二つの公平さ。
生み出した成果が、公正に評価されているか。
成果を生み出す機会が、公正に分配されているか。
※形式的な機会均等と実質的な機会均等の違いを考えるための仮想例です。成果の差が、直ちに不当な差であることを意味するものではありません。
プラトンは、正義をどのように考えたのか
正義について考えるうえで、古代ギリシャの哲学者プラトン(紀元前427〜347年頃)の『国家』は重要な著作です。『国家』は、理想的な政治制度を説明するだけの本ではありません。そもそも正義とは何か。正しい人間として生きることには、どのような意味があるのか。そうした問題を、ソクラテスらの対話を通して考える著作です。
正義は、強い者の利益なのか
『国家』第1巻では、トラシュマコスという人物が、正義について挑発的な主張をします。正義とは、強い者の利益である。支配者は自分たちに有利な法律をつくり、従う人々にそれを正義として守らせる。こうした主張です。
この考え方に立てば、何が正しいかは、権力を持つ側によって決められることになります。現代の企業に置き換えれば、評価制度をつくる経営者や管理職にとって都合のよいルールが、「公平な制度」として正当化されることも考えられます。
もちろん、トラシュマコスが現代の人事制度を論じたわけではありません。しかし、ルールをつくる側の利益と、ルールに従う側の利益が一致しているとは限らない、という問題を考える手がかりになります。
例えば、長時間働く社員が高く評価される制度があったとします。その制度は、会社にとって都合がよいかもしれません。しかし、会社にとって利益があることだけで、その制度が公正だと判断できるのでしょうか。ここでは、制度の成果だけでなく、その制度が誰の利益に基づいて設計されているのかも問われます。
プラトンの正義は、役割の調和と結びついている
『国家』第4巻では、ソクラテスは正義を、各人が自分にふさわしい役割を果たすことと結びつけて説明します。プラトンは、国家の構造と個人の魂の構造を重ね合わせて考えました。
正義とは、
役割が調和している状態
『国家』における、国家の構造と魂の構造
- 統治する人々魂の理性的な部分
- 国家を守る人々魂の気概に関わる部分
- 生産を担う人々魂の欲望に関わる部分
すべての人へ、
同じものを配ることではない。
異なる部分がそれぞれ適切な役割を果たし、相互に混乱を生じさせないとき、全体として望ましい秩序が成立する。
※プラトン『国家』第4巻をもとに簡略化した図です。
この発想は、現代の組織について考えるときにも、ある意味では理解しやすいかもしれません。組織には、さまざまな専門性を持つ人がいます。全員が同じ仕事をするより、それぞれの能力を生かして役割を分担した方が、よい成果につながる場合があります。しかし、ここで簡単にプラトンの考え方を肯定することはできません。
誰が「ふさわしい役割」を決めるのか
重要なのは、誰がその人にふさわしい役割を決めるのかという問題です。例えば、ある社員が制作の仕事を担当しているとします。その社員は、新しい事業の企画に挑戦したいと考えています。しかし、上司は「この人は制作に向いている」と判断し、企画の仕事を任せません。
組織全体の効率という観点では、その判断に合理性がある場合もあります。しかし、本人が新しい能力を身につける機会を失っている可能性もあります。現在持っている能力だけで役割を固定すれば、将来の可能性を狭めてしまうかもしれません。
プラトンの『国家』は、現代の個人の自由や平等をそのまま擁護する思想ではありません。彼が構想した理想国家には、政治参加や職業のあり方に厳しい制約があり、現代の民主主義や人権の考え方とは相容れない部分があります。また、社会全体の秩序を重視するあまり、個人が自分の生き方を選ぶ自由が十分に尊重されないという批判も考えられます。
だから私は、プラトンの正義論を、そのまま現代の組織づくりの手本にするつもりはありません。ただ、正義を単に同じものを配ることではなく、社会や人間のあり方全体に関わる問題として捉えた点は興味深いと思います。同時に、誰が望ましい秩序を決めるのかという問いも残ります。
ロールズは、どのような社会を公平だと考えたのか
20世紀になると、正義を考えるうえで重要な理論を提示した哲学者が登場します。ジョン・ロールズ(1921〜2002)です。ロールズは1971年に『正義論(A Theory of Justice)』を出版し、「公正としての正義」と呼ばれる考え方を展開しました。
ロールズが重視したのは、社会の基本的な制度が、どのような原則によって設計されるべきかという問題です。ここでいう制度には、政治的な仕組みだけでなく、経済や教育など、社会の中で人々の権利や機会を左右する仕組みも含まれます。
自分がどの立場になるかわからなかったら
ロールズの議論でよく知られているのが、「無知のヴェール」という思考実験です。例えば、これから新しい社会をつくるとします。その社会では、どのようなルールを採用するべきでしょうか。
豊かな人は、自分の財産を守りやすいルールを選びたくなるかもしれません。社会的に有利な立場の人は、その立場を維持できる制度を支持する可能性があります。反対に、不利な立場にいる人は、より多くの保障を求めるかもしれません。では、自分がその社会でどのような立場になるのかわからないとしたら、どうでしょうか。
ロールズの「原初状態」という仮想的な選択状況では、人々は自分の具体的な条件を知らない一方で、人間や社会についての一般的な知識は持っています。こうした情報を遮る仕組みが、無知のヴェールです。現実に記憶を失った状態で会議をするという話ではなく、特定の立場に有利なルールを選ぶことを避けるための思考実験です。
自分の立場がわからなければ、
どんなルールを選ぶか
自分に有利な条件を知らない状況で、社会の正義の原則を考える
無知のヴェールで遮られるわからないこと
- 自分の社会的な地位
- 財産や家庭環境
- 才能や能力
- 自分の人生観
判断に使えるわかっていること
- 社会の一般的な仕組み
- 人間の基本的な必要
- 経済や心理の一般知識
- 制度が人々に与える影響
The Original Position/原初状態
どの立場になっても受け入れられる原則を考える
ロールズの正義の二原理と優先順位
- 1平等な基本的自由
- 2-a公正な機会均等
- 2-b格差原理
※Rawls『正義論』『公正としての正義 再説』の学術解説を参考に簡略化しました。無知のヴェールは、主として社会の基本的な正義の原則を選ぶための思考実験です。
経営者になるか、社員になるかわからなかったら
この考え方を、現代の企業について考えるための比喩として使ってみます。これから新しい会社の評価制度をつくるとします。しかし、自分が経営者になるのか、管理職になるのか、一般社員になるのかはわかりません。高い能力を持っているかもしれませんし、まだ十分な経験がない立場になるかもしれません。家庭の事情によって、働ける時間に制約がある可能性もあります。
このような状況であれば、どのような評価制度を選ぶでしょうか。会社への貢献が適切に評価される制度は必要だと考えるかもしれません。一方で、たまたま不利な環境に置かれたことによって、重要な機会から排除される制度には慎重になるでしょう。また、自分が少数派の立場になったとしても、必要な権利が守られる仕組みを求めるかもしれません。
ここで重要なのは、自分の現在の立場から少し離れて、制度の正当性を考えてみることです。ただし、これはロールズの原初状態を企業に応用した、筆者による比喩です。ロールズ自身が、あらゆる企業の人事評価を無知のヴェールによって直接決めるべきだと主張したわけではありません。彼の理論は、第一に社会の基本構造に関するものです。企業の制度を考える際に参考にできるとしても、その適用範囲は区別する必要があります。
全員が応募できれば、機会は平等なのか
ロールズの正義論には、二つの主要な原理があります。第一の原理では、すべての人が、ほかの人々の同等の自由と両立する、平等な基本的自由を保障されることが重要になります。第二の原理では、社会的・経済的な不平等が認められるための条件が論じられます。その一つが「公正な機会均等」です。もう一つが、後で扱う「格差原理」です。ここでは、まず機会の平等について考えてみます。
形式的な機会の平等
例えば、ある企業が管理職を募集しているとします。募集条件を公開し、性別や年齢、上司との個人的な関係によって差別せず、候補者の能力や実績を共通の基準で評価する。これは、形式的な機会の平等として重要な考え方です。そのような制度がなければ、公平な競争は成立しにくいでしょう。しかし、ロールズが重視したのは、こうした形式的な条件だけではありません。
公正な機会均等
ロールズの公正な機会均等では、同程度の才能や能力、それを発揮しようとする意欲を持つ人々が、社会的な出自によって異なる成功の見込みを持つべきではないと考えます。
誰でも応募できることと、
同じ見込みを持てること
機会の平等をめぐる、二つの水準
Formal形式的な機会の平等
特定の人を最初から排除せず、
共通の基準で競争できるか
- 募集条件が公開されている
- 性別・年齢・人間関係で差別しない
- 共通の基準で評価する
Fair公正な機会均等
能力と意欲が同程度なら、
出自に関係なく同じ見込みを持てるか
家庭の経済状況で教育の機会が大きく変わるなら、試験当日に同じ問題を出すだけでは足りない
全員が同じ成果を得るべき、
という考え方ではない。
能力や努力の違いによって、結果が異なることまで否定しているわけではない。
※Rawls『正義論』の学術解説を参考に簡略化した図です。
重要なのは、その能力を育て、発揮する機会が、社会的な背景によって不当に左右されないようにすることです。
仕事の成果にも、機会の違いが影響する
この考え方を組織に置き換えると、興味深い問題が見えてきます。例えば、二人の社員が同じ評価制度のもとで働いているとします。一人は、大規模なプロジェクトを任され、経験豊富な上司から継続的な指導を受けています。もう一人は、重要な仕事を任される機会が限られ、日常的な業務を中心に担当しています。
一定期間が経過した後、二人の成果を比較します。前者は大きな成果を上げ、後者はそこまでの成果を示せませんでした。このとき、前者を高く評価することには理由があるでしょう。実際に、組織に大きく貢献したからです。しかし、この結果をすべて本人の能力や努力の違いとして説明してよいのでしょうか。任された仕事や学習の機会が、成果に影響していた可能性もあります。
ここには、二つの異なる問いがあります。
実際に生み出した成果を、どう評価するか。
その成果を生み出す機会が、どう配分されていたか。
私は、この二つを区別する必要があると思います。成果を評価することと、機会の配分を見直すことは、必ずしも対立するものではありません。同じ基準で成果を評価しながら、その成果を生み出す機会が偏っていないかを検討することもできるからです。
成果が違えば、報酬が違うことは正当化されるのか
ここで、もう一段難しい問題があります。機会が公平に保障されていたとしても、結果に大きな差が生じることがあります。例えば、ある社員は、非常に高い成果を上げました。別の社員は、努力していたものの、同じ水準の成果を上げることはできませんでした。この場合、二人の報酬に差を設けることは、不公平なのでしょうか。
私は、そう単純には考えられないと思います。組織に貢献した人を適切に評価することには意味があります。難しい仕事を引き受けたり、専門的な能力を身につけたりする動機にもなり得ます。しかし、ロールズの正義論は、ここでも別の問いを提示します。
ロールズの格差原理
ロールズの第二原理に含まれる「格差原理」は、社会的・経済的な不平等について、特定の条件を求める考え方です。大まかにいえば、社会の最も不利な立場にいる人々にとって、実現可能な制度の中で最大の利益がもたらされるよう、不平等が設計されるべきだと考えます。
例えば、ある社会で、特定の仕事に高い報酬を与えるとします。格差原理の観点からは、その差が誰に何をもたらすのかによって、評価が分かれます。
その格差は、
最も不利な人々に何をもたらすか
特定の仕事に高い報酬を与える社会を例に
正当化の余地がある全体を底上げする格差
必要な専門職が育ち、最も不利な立場にいる人々の生活も改善する
問題になる一部だけが得をする格差
一部の人々の報酬だけが増え、最も不利な人々には何の利益も生まれない
格差原理だけが、
独立して採用されるわけではない。
平等な基本的自由が優先され、その次に公正な機会均等が求められる。格差原理は、その条件を満たした制度で不平等をどう正当化できるかを考えるもの。
※Rawls『正義論』の学術解説を参考に簡略化した図です。報酬の例は仮想例です。
また、格差原理は、個々の社員の給料を「最も低い人に利益があるかどうか」だけで機械的に決めるためのルールではありません。あくまで社会の基本的な制度の設計に関する原理として理解する必要があります。
努力した人が報われることは、公平ではないのか
ここでは、ロールズに対する反論も考えられます。懸命に努力し、高い能力を身につけ、大きな成果を上げた人は、それにふさわしい報酬を得るべきではないでしょうか。そうしなければ、努力する動機が弱くなるかもしれません。また、高い成果を上げた人からすれば、自分の貢献が適切に評価されていないと感じる可能性があります。
これは、軽視できない問題です。努力や成果と報酬の関係を、すべて否定する必要はないと思います。ただし、ここでも考えたいことがあります。努力する意欲や、能力を身につける環境は、どこまで本人だけのものなのでしょうか。
生まれ持った能力や、育った家庭、受けた教育、出会った人々。こうした条件も、その人が発揮できる成果に影響している可能性があります。ロールズは、人々の自然的な才能や社会的な出自が、道徳的な意味で当然に報酬を受け取る資格を決めるわけではないと考えました。ただし、これは努力や成果に応じた報酬を一切認めないという意味ではありません。公平な制度の中で、どのような報酬の差を認めることが望ましいかを考える必要があるということです。
ここで大切なのは、成果を評価することと、その成果のすべてが本人だけによって生み出されたと考えることを区別することではないでしょうか。
公平な制度は、成果を上げた人を不当に扱ってよいのか
ここまで、機会や出自の違いを考慮する必要性について見てきました。しかし、その議論を進めると、逆の問題も生まれます。
例えば、ある企業が社員の事情を考慮するために、成果にかかわらず同じ報酬を支払うことにしたとします。仕事の難易度や責任、組織への貢献には大きな違いがあります。それでも、報酬はすべて同じです。この制度を公平だと呼べるのでしょうか。
高い成果を上げている社員からすれば、不合理に感じられるかもしれません。仕事の責任や必要な能力の違いを、評価に反映すべきだという考え方にも理由があります。だから、機会の平等を重視することが、必ずしも結果の平等を要求するわけではないと考えています。
公平さを、単純な二択にしない
成果主義か、平等な報酬か。能力で評価するか、個人の事情を考慮するか。こうした二つの選択肢だけで考えると、議論が難しくなることがあります。
例えば、成果に基づく評価を維持しながら、能力開発の機会を広げることはできるかもしれません。大きな仕事を任される人が固定されているなら、案件配分の方法を見直すことも考えられます。また、育児や介護、健康上の事情がある社員について、働いた時間だけではなく、実際に果たした役割や成果を適切に評価する仕組みをつくることもできるでしょう。
ただし、ここで注意したいのは、成果の評価そのものを曖昧にしないことです。成果が異なるのに、その違いを説明できないまま同じ評価を与えれば、別の不公平を生む可能性があります。組織は、限られた資源で事業を運営しています。十分な成果が得られなければ、社員へ報酬を支払い続けること自体が難しくなる場合もあります。
だから、事業の成果を重視することは必要です。そのうえで、成果を生み出す機会がどのように分配されているかを考える。この二つを両立させることが、組織の制度設計では重要なのではないでしょうか。
どのような違いを、評価に反映するべきなのか
例えば、営業担当者の売上を評価するとします。売上が大きい人を高く評価することには、一定の合理性があります。しかし、担当している顧客の規模や、市場の成長性、営業支援の体制などが大きく異なる場合はどうでしょうか。単純な売上金額だけでは、本人の貢献を十分に比較できない可能性があります。一方で、あらゆる条件を調整してしまえば、何を成果として評価しているのかわからなくなることもあります。
この問題には、万能な答えはないと思います。ただ、評価制度をつくる際には、少なくとも次のことを分けて考える必要がありそうです。
評価制度をつくるときに
分けて考えたいこと
- 01何を成果として評価するのか
- 02その成果に、本人がどの程度影響を与えられるのか
- 03役割や機会の配分による差を、どのように扱うのか
- 04その評価の違いを、本人に説明できるのか
公平な評価とは、全員に同じ数字を当てはめることだけではなく、何を理由に差を設けるのかを説明できることにも関わるのではないでしょうか。
ロールズの正義論にも、限界はないのか
ここまで、ロールズの正義論を中心に考えてきました。しかし、ロールズの考え方が、公平に関するすべての問題を解決したわけではありません。
例えば、何をもって人々の置かれた状況を比較すべきかという問題があります。ロールズは、基本的な自由や機会、所得、富など、社会の中で人々が利用できる重要な手段に注目しました。しかし、同じ資源を持っていても、人によって実際にできることは異なる場合があります。
センのケイパビリティ・アプローチ
経済学者・哲学者のアマルティア・センは、人々が持っている資源だけでなく、その資源を使って実際に何をできるのかに注目しました。これは、ケイパビリティ・アプローチと呼ばれる考え方です。
例えば、二人に同じ金額の支援を行ったとします。しかし、一人はその金額で必要な移動や生活を十分に行えますが、もう一人は身体的な条件や地域の環境によって、同じことを行うために追加の支援が必要だったとします。資源の配分は同じでも、実際にできることには差が残ります。このような場合、同じ量の資源を持っていることだけで、機会が平等だと判断できるのでしょうか。
ケイパビリティ・アプローチは、形式的な権利や資源の量だけでなく、実質的な選択の自由を考えるための枠組みです。ただし、これはロールズの理論を単純に否定するものではありません。ロールズ自身も、人々の基本的な能力や健康に関する条件を、完全に無視していたわけではありません。また、センの議論についても、どのような能力や機会を重視し、それらをどう比較するのかという問題が残ります。
重要なのは、何を公平の基準にするかによって、見える問題が変わってくるということです。
公平を追求することにも、費用がかかる
もう一つ、現実的な問題があります。公平な機会を保障するために、制度や支援を充実させることには費用がかかります。例えば、社員一人ひとりの事情に合わせた研修や、柔軟な勤務制度、職務の調整などを行う場合です。それらの取り組みは重要かもしれません。しかし、企業が利用できる予算や人員には限りがあります。
どこまで支援するべきなのか。
その費用を、誰が負担するべきなのか。
ほかの重要な施策との間で、どのように優先順位を決めるべきなのか。
こうした問題も考えなければなりません。また、特定の事情に配慮することで、別の人々に負担が集中する可能性もあります。その場合、配慮を受ける人と、その負担を担う人の両方について考える必要があります。
公平を重視することは、すべての違いをなくすことではありません。どのような違いを認め、どのような違いを是正し、誰がその費用を負担するのかを考えることでもあるのだと思います。
公平な競争を、誰が設計するのか
ここまで考えてきて、最も気になるのは、競争のルールを誰が決めているのかという問題です。企業の評価制度は、一般に経営者や人事部門、管理職などによって設計されます。その制度のもとで評価を受ける社員自身が、十分に制度づくりへ関与できるとは限りません。
もちろん、すべての社員が制度を直接決定することが、常に望ましいとは限らないでしょう。組織には、専門的な判断や経営上の責任が必要です。しかし、ルールをつくる側だけで公平さを判断してよいのかという問いは残ります。
ルールをつくる人にも、立場がある
例えば、長時間働けることを高く評価する管理職がいたとします。その管理職自身は、長時間働くことによって能力を高め、重要な仕事を任されてきたのかもしれません。その経験から、仕事への強いコミットメントを評価したいと考えることには、理由があるでしょう。
しかし、その制度が、ほかの社員にどのような影響を与えるのかは、別に考える必要があります。自分にとって合理的だった働き方が、すべての社員にとって合理的だとは限りません。また、過去にその制度で成功した人々が、今後もその制度によって評価されやすいという構造が生まれるかもしれません。
ここで、ロールズの無知のヴェールが参考になります。自分が現在の立場ではなかったとしても、その制度を選ぶだろうか。自分が評価する側ではなく、評価される側になったとしても、そのルールを公正だと考えるだろうか。もちろん、この問いだけで公平な制度が完成するわけではありません。しかし、自分の利益や経験から少し距離を置いて考えるための手がかりにはなります。
制度の公平さは、運用の中でも検証する必要がある
もう一つ重要なのは、制度が公平に設計されたとしても、その運用が公平だとは限らないということです。評価基準が明確でも、どの社員に重要な仕事を任せるかによって、成果を上げる機会に差が生まれます。制度に何が書かれているかだけでなく、現実にどのように機能しているかを確かめる必要があります。
私は、この点に組織の制度設計の難しさがあると思います。制度を設計する際には、一定のルールが必要です。しかし、そのルールをすべての人に適用するだけでは、想定していなかった不公平が生まれる可能性があります。だからといって、すべてを個別の判断に任せれば、今度は一貫性が失われるかもしれません。
この両方を避けるためには、明確な原則と、実際の運用を確認し続ける仕組みが必要なのではないでしょうか。
公平な組織には、
二つの設計が必要になる
成果を適切に評価することと、成果を生み出せる機会を整えることを区別する
Evaluation成果の評価
- 何を成果とするか
- 役割と責任の違い
- 評価基準の透明性
- 報酬との関係
Opportunity機会の配分
- 重要案件への参加
- 研修・学習の機会
- 昇進へのアクセス
- 働き方の制約への配慮
Continuous Review
制度をつくった後も、公平さを確かめ続ける
評価結果と機会の偏りを確認し、必要に応じてルールや運用を見直す
制度に書かれていることと、
現実の運用は同じとは限らない。
研修制度があっても、忙しくて参加できない人がいる。意見を伝える制度があっても、不利益を恐れて利用できない場合がある。
※公正な機会均等の議論を参考にした筆者独自の組織設計フレームです。ロールズが提唱した企業人事制度ではありません。
おわりに|公平とは、同じスタートラインに立つことなのか
最初の問いに戻ります。同じルールで競争すれば、それは公平なのでしょうか。
今回、プラトンとロールズの正義論について調べ、機会の平等や格差原理について考えてきました。プラトンは、正義を社会や人間の適切な秩序と結びつけて考えました。ロールズは、自分がどのような立場になるかわからない状況で、人々がどのような正義の原則を選ぶのかを考えました。両者の正義論は、時代も目的も異なります。そして、どちらも現代の人事制度を直接説明するための理論ではありません。
それでも、二人の議論を通して、正義を単なるルールの適用として考えることには限界があると感じました。同じルールを適用することは重要です。恣意的な評価を防ぎ、制度への信頼を生み出すためにも、共通の基準は必要でしょう。しかし、そのルールのもとで成果を生み出すための機会が、人によって大きく異なっていたらどうでしょうか。また、そのルールをつくる側が、自分たちに有利な条件を当然のものとしていたらどうでしょうか。そのような状況では、形式的には平等であっても、公平さについて考える余地が残ります。
一方で、機会が違うことを理由に、実際の成果の違いをすべて無視することも適切ではないと思います。高い成果を上げた人を正当に評価することには意味があります。成果を生み出すために努力したことや、難しい仕事を引き受けたことも、評価されるべきでしょう。だからこそ、私は二つの問いを分けて考えたいと思います。
生み出した成果を、どのように評価するか。
その成果を生み出す機会を、どのように分配するか。
前者だけを考えれば、機会の違いを見落とすかもしれません。後者だけを考えれば、成果や責任の違いを十分に評価できなくなるかもしれません。どちらも必要なのだと思います。
そして、公平な制度とは、一度つくれば完成するものではないのでしょう。人々の状況が変わり、働き方が変わり、組織のあり方も変化していきます。同じルールを維持することが、以前は公平だったとしても、今も公平だとは限りません。だから、制度をつくる側には、そのルールが現実にどのような機会を生み、どのような不利益をもたらしているのかを、確かめ続ける責任があるのではないでしょうか。
今回、特に考えさせられたのは、ロールズの無知のヴェールでした。自分がどの立場になるかわからなかったとしても、同じ制度を選ぶだろうか。この問いは、自分が当たり前だと考えているルールを、別の角度から見直すための手がかりになります。
公平とは、全員に同じルールを与えることだけではなく、そのルールのもとで何を選び、何を実現できるのかまで考えることなのかもしれません。
そして、もう一つ問いが残ります。
私たちは、成果を評価するためのルールには関心を持っていても、その成果を生み出す機会が誰に与えられているのかについて、十分に考えているのでしょうか。
参考文献・出典
以下は、記事中の学術的な説明に関する主な参照文献です。企業の評価制度や仕事の配分に関する例は仮想例であり、現代の組織への応用には筆者自身の考察が含まれます。
- Plato, Republic(『国家』)。特に第1巻(トラシュマコスとの対話)、第2巻(正義の価値)、第4巻(国家と魂の正義)。原典英訳:Perseus Digital Library(新しいタブで開きます)
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, Plato's Ethics and Politics in The Republic(新しいタブで開きます)。正義をめぐる対話と、理想国家・魂の構造に関する学術解説。
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, Plato's Ethics: An Overview(新しいタブで開きます)。プラトンの正義・役割分担の考え方と、その限界についての解説。
- Rawls, J. (1971). A Theory of Justice(『正義論』)。原初状態、無知のヴェール、平等な基本的自由、公正な機会均等、格差原理に関する基本文献。学術解説:Stanford Encyclopedia of Philosophy — John Rawls(新しいタブで開きます)
- Rawls, J. (2001). Justice as Fairness: A Restatement. 公正としての正義を後年に整理した著作。原理の解説:Stanford Encyclopedia of Philosophy — John Rawls(新しいタブで開きます)
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, Equality of Opportunity(新しいタブで開きます)。形式的な機会均等と実質的な機会均等、ロールズの公正な機会均等についての解説。
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, The Original Position(新しいタブで開きます)。原初状態、無知のヴェール、社会制度を公平に考えるための思考実験についての解説。
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, The Capability Approach(新しいタブで開きます)。アマルティア・センらのケイパビリティ・アプローチと、形式的な機会と実質的な自由の違いについての解説。