仕事で成果を上げることは、うれしいものです。大きなプロジェクトを任される。自分が考えた企画が実現する。事業が成長し、顧客から評価される。収入が増えたり、重要な役割を任されたりすることもあるでしょう。そうした経験は、自分の仕事に意味を感じるきっかけになります。
しかし、成果を上げ続けることが、そのまま幸せに生きることにつながるのでしょうか。
例えば、仕事に強いやりがいを感じ、毎日遅くまで働いている人がいたとします。本人は、今の働き方に満足しているかもしれません。新しい挑戦が楽しく、仕事に時間を使うことを自分で選んでいるのでしょう。
一方で、同じ職場には、家族や友人との時間、趣味、学びなどを大切にしたい人もいるかもしれません。その人は、決められた時間の中で十分な成果を上げ、自分の生活も充実させたいと考えています。
どちらが幸福なのでしょうか。収入や役職で判断することはできそうにありません。働く時間の長さだけでも決まりません。本人が満足しているのであれば、それぞれ幸福だと考えてよいのでしょうか。
私は、この問いを考えているうちに、もう一つの問題が気になりました。
もし、仕事に多くの時間を使う人だけが評価され、重要な経験を得られる組織だったとしたら、ほかの働き方を選ぶ自由は本当にあるのでしょうか。
仕事をどう捉えるかは、個人の価値観に関わる問題です。しかし、どのような生き方を選べるのかは、個人の意思だけでは決まらないのかもしれません。
今回は、古代ギリシャの哲学者アリストテレスが考えた「幸福」を出発点に、徳、中庸、実践知といった概念を学びながら、働き方と組織の責任について考えたいと思います。
アリストテレスにとって、幸福とは何だったのか
アリストテレス(紀元前384〜322年)は、『ニコマコス倫理学』で、人間にとって善い生き方とは何かを考えました。そこで中心となるのが、「エウダイモニア」という概念です。
エウダイモニアは一般に「幸福」と訳されます。ただし、私たちが日常的に使う、楽しい気分や満足感としての幸福と、完全に同じ意味ではありません。英語では「flourishing(よく生きること、人生が豊かに花開くこと)」と訳されることもあります。一時的にうれしい気分になることではなく、人生全体として、よく生きているとはどういうことかを考える概念です。
富や名誉は、人生の目的なのか
アリストテレスは、人間の行動には、それぞれ何らかの目的があると考えました。もし、すべての目的が別の何かのためにあるのだとしたら、私たちは何を最終的に目指しているのでしょうか。
何のために、
それを求めるのか
目的をたどっていくと、最後に何が残るのか
仕事
収入を得る
収入
住む場所を確保する。食事をする。旅行に出かける。
活動
安心して暮らす。家族と過ごす。新しい経験をする。
最高善
それ自体のために求められるもの
アリストテレスは、これをエウダイモニアと結びつけた
※アリストテレス『ニコマコス倫理学』第1巻をもとに、仕事の例を当てはめて簡略化した図です。
富は、さまざまなことを実現するための手段になります。名誉は、他人から評価されることにも関係しています。快楽も人間にとって重要ですが、楽しい経験をたくさん積み重ねることだけで、善い人生を十分に説明できるのでしょうか。アリストテレスは、そうしたものを否定したわけではありません。ただ、それらの獲得だけを人生の最終的な目的として考えることには、疑問を持っていました。
幸福は、何かを持っている状態ではない
アリストテレスの議論で興味深いのは、幸福を単に何かを所有している状態として捉えなかったことです。彼は、人間に特徴的な働きとして、理性に即した活動を重視しました。優れた音楽家が、実際の演奏によってその能力を発揮するように、人間の善も、徳に即した活動の中で実現されると考えます。
ここでいう徳は、後に詳しく取り上げますが、単に道徳的に立派であることだけでなく、優れた能力や性向を意味する概念です。つまり、優れた人格を持っているだけでなく、それを実際の行動として表すことが重要になります。
この考え方を知ると、仕事の成果についても違う角度から考えられそうです。高い役職に就くこと。多くの収入を得ること。社会的に評価されること。それらは人生を豊かにする要素かもしれません。しかし、何を手に入れたのかだけでなく、どのような活動を通して、どのような人間として生きているのかも考える必要があるのではないでしょうか。
ただし、これは私自身の現代的な解釈です。アリストテレスが現在のキャリアや企業組織について直接論じていたわけではありません。
幸福を、何によって考えるのか
同じ人生でも、何を幸福の中心に置くかによって評価は異なる
- 01 快楽・経験 心地よく、楽しい経験があるか 本人の経験や感情を重視する。
- 02 欲求の充足 自分が望んでいることを実現できたか 何を望むのか、その望みがどう形成されたのかにも疑問が残る。
- 03 徳・エウダイモニア 人生全体として、よく生きているか 徳に即した活動と、外的な善も重要になる。
※現代の幸福論における代表的な立場と、アリストテレスの倫理学を比較した簡略図です。これらは同一の分類体系ではなく、互いに完全に排他的でもありません。
善い行動を「知っている」だけで、善い人になれるのか
アリストテレスの倫理学では、「アレテー」という概念が重要になります。アレテーは「徳」や「卓越性」と訳されます。人間が自分の能力を優れた形で発揮することに関わる概念です。
アリストテレスは、徳の中でも、知的な徳と倫理的な徳を区別しました。知的な徳は、主に教育や経験によって発達します。一方、倫理的な徳は、習慣を通して形成されると考えました。
公正であることを知っていても、公正に行動できるとは限らない
例えば、ある管理職が、メンバーの自主性を尊重すること、異なる意見を受け入れること、公平に評価することといった原則を研修で学び、ほかの人に説明することもできるとします。しかし、実際の会議では、自分と異なる意見が出ると、すぐに否定してしまいます。その管理職には知識があるかもしれません。しかし、知っていることを実際の行動として表せているかどうかは、別の問題です。
アリストテレスは、公正な行動を繰り返すことによって、公正な人格が形成されていくと考えました。ただし、同じ行動を何度も繰り返せば、必ず徳が身につくというわけでもありません。
習慣と、人格としての徳は同じではない
例えば、部下の意見を最後まで聞くようにしている管理職が、二人いるとします。
同じ行動でも、
選んだ理由は異なる
部下の意見を最後まで聞く、二人の管理職
管理職A注意されるから聞く
社内のルールに違反すると、注意されるから
決められた行動を繰り返している
管理職B知りたいから聞く
相手を尊重する重要性を理解し、その人の考えを知りたいから
なぜ善いのかを理解し、自分の判断として行動している
成熟した徳には、行動だけでなく、
選択の理由や感情のあり方も関わる。
※アリストテレス『ニコマコス倫理学』の議論をもとにした仮想例です。
これは、組織の行動指針を考えるときにも参考になると思います。例えば、「顧客を第一に考える」という行動指針を掲げたとします。社員がその言葉を覚えていても、実際の仕事でどのように判断するかは別の問題です。顧客の要求をすべて受け入れることが、顧客を大切にすることなのでしょうか。短期的な要望には応えず、将来の利益につながる別の提案をする方がよい場合はないでしょうか。
行動指針を言葉として共有することと、その指針を具体的な場面で実践できることの間には、距離があります。その距離を埋めるためには、知識だけでなく、経験や判断の積み重ねが必要になるのだと思います。
アリストテレスの「中庸」は、ちょうど真ん中を選ぶことなのか
アリストテレスの倫理学でよく知られている概念に「中庸」があります。中庸とは、過剰と不足の間にある適切なあり方を指します。
例えば、勇気について考えてみます。恐怖から常に逃げてしまうことは、勇気が不足した状態として考えられます。一方で、危険を十分に考えず、無謀な行動を取ることも、勇気があることとは違います。その間にある適切なあり方が、勇気という徳に関係しています。
ただし、ここで誤解したくないことがあります。中庸は、二つの極端な行動の、数量的な真ん中を選ぶことではありません。
中庸は、平均ではない
例えば、ある企業の広告表現について、意見が対立したとします。一方は、今すぐ広告を停止するべきだと主張しています。もう一方は、批判を気にせず、予定どおり継続するべきだと考えています。
このとき、中庸を「両方の意見を半分ずつ採用すること」と考えるなら、広告の半分だけを停止するという案が浮かぶかもしれません。しかし、その判断は本当に適切なのでしょうか。
もし広告の表現が、生活者に重大な誤解を与えているのであれば、明確な修正や停止が必要かもしれません。逆に、批判の根拠となっている事実が誤っているのであれば、丁寧な説明をしたうえで継続するという判断にも理由があります。
必要なのは、二つの意見の中間を機械的に探すことではありません。
何が問題になっているのか。
誰にどのような影響が生じているのか。
どのような行動が、どのような理由から適切なのか。
そうしたことを具体的に考える必要があります。
中庸とは、
二つの意見の真ん中ではない
勇気は、臆病と無謀の算術的な中間という意味ではない
※適切な位置は、数値的な中央に固定されるものではありません。
広告への批判が起きた場合
単純な折衷「半分だけ停止する」
真ん中を取ること自体が目的になる
状況にふさわしい判断「何が起きているか確かめる」
被害の可能性に応じた暫定対応も検討する
※アリストテレス『ニコマコス倫理学』第2巻をもとにした概念図です。すべての行為に適切な中間が存在するわけではありません。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第2巻で、中庸を、私たちにとっての適切さとして説明しています。同じ量であっても、ある人にとっては多すぎ、別の人にとっては少なすぎる場合がある。何が適切なのかは、状況によって変わり得るのです。
また、彼はすべての行為に中庸が存在するとも述べていません。窃盗など、それ自体が不正な行為については、適度な分量で行えば善いというものではないと論じています。つまり、中庸は、常に穏やかな態度を取り、何でも折衷すればよいという思想ではありません。
正しい判断が、必ず穏当な判断とは限らない
この違いは、企業の意思決定について考えるときにも重要だと思います。問題を大きくしたくないから、極端な判断を避ける。関係者の意見が分かれているから、間を取る。そうした方法が適切な場合もあるでしょう。
しかし、重大な問題が起きている場合には、明確に行動することが必要になるかもしれません。反対に、感情的な反応に流されず、事実関係を調べることが重要な場合もあります。ただし、調査を行うことが、責任を先延ばしにする理由になってはいけません。被害が拡大する可能性があるなら、調査と並行して暫定的な対応を取る必要があるでしょう。
中庸とは、決断を避けることではありません。何が適切なのかを、具体的な状況に即して判断することなのだと思います。
正しい判断を支える「実践知」とは何か
では、具体的な状況に応じて、何が適切かを見極めるためには、何が必要なのでしょうか。ここで重要になるのが、「フロネーシス」という概念です。フロネーシスは一般に「実践知」と訳されます。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第6巻で、この概念を詳しく論じています。
実践知は、普遍的な知識を持っていることだけではありません。個別の状況を理解し、何を目的として、どのように行動することが善いのかを判断する能力に関わります。
ルールを知っていても、判断できないことがある
例えば、企業が社員の働き方について、新しい制度を設けようとしているとします。どちらの方向を選んでも、一般的な原則だけでは判断が決まりません。
どの制度にも、
見落としやすい落とし穴がある
働き方の制度を見直す、二つの方向
長時間労働を減らす残業を厳しく制限する
本人が希望する学習や挑戦の機会まで、制限されないか
自主性を尊重する働く時間を自由に選べる
昇進に長時間労働が必要な組織なら、その自由は形式的にならないか
仕事の性質や事情の違いをどう扱うか
一律一つのルールを全員に当てはめる
顧客対応、集中作業、育児や介護などの違いを無視してしまう
個別すべてを個別の判断に任せる
公平さや透明性の問題が生じる
実践知は、具体的な状況で
何を考慮すべきかを見極める能力に関わる。
※働き方の制度は、実践知を考えるための仮想例です。
実践知は、仕事ができることと同じなのか
ここには、もう一つ重要な区別があります。実践知は、目的を達成するための器用さや、効率的な手段を見つける能力と完全に同じではありません。
例えば、社員の不満を表面化させず、組織の評判を守るために、巧みに情報を操作できる管理職がいたとします。目的を達成するという意味では、優れた能力があるのかもしれません。しかし、それが社員の尊厳や自由を損なうのであれば、アリストテレスの実践知とは異なるでしょう。
実践知には、何を目指すべきかという善い目的への理解が関わります。手段を選ぶ能力だけでなく、目的そのものについても適切に考えることが求められるのです。この違いを知ると、仕事ができる人と、善い判断ができる人は、必ずしも同じではないのかもしれないと感じます。
もちろん、現代の企業における能力評価を、アリストテレスの実践知だけで説明できるわけではありません。それでも、成果を上げる能力と、その成果をどのような目的や方法で実現するかという判断を区別することには、意味があると思います。
仕事で成功することと、人生が豊かであること
ここで、最初の問いに戻りたいと思います。仕事で成功することと、幸福に生きることは、同じなのでしょうか。
アリストテレスは、名誉や富、快楽だけで善い人生を説明することに疑問を持ちました。また、『ニコマコス倫理学』第10巻では、知的な探究に取り組む「観想的な生活」を、特に高い幸福のあり方として論じています。ここでいう観想は、何もせずに休むことではありません。真理を知ることそれ自体を目的とするような、知的な活動に関わるものです。
この議論を知ると、人生における価値を、仕事の成果や社会的な評価だけで考えることには限界があるように感じます。
仕事の外にも、人生を豊かにするものがある
例えば、新しい知識を学ぶこと。友人と時間を過ごすこと。家族との関係を育てること。芸術や文化に触れること。社会の活動に参加すること。こうした経験も、人生を豊かにする要素になり得ます。
もちろん、仕事そのものが、知的な探究や人間関係、社会への貢献につながることもあります。仕事と幸福を対立するものとして考える必要はありません。むしろ、仕事の中で能力を発揮し、他者と協力し、新しい価値を生み出すことに、大きな充実を感じる人もいるでしょう。
ただし、仕事に大きな価値を感じることと、それだけが人生の価値であると考えることは違います。そして、すべての人が仕事に同じ意味を求めているわけでもありません。
ここで注意したいのは、アリストテレス自身が、現代的な意味で多様な生き方をすべて平等に評価していたわけではないことです。彼は観想的な生活を特に高く評価しており、その議論を、現代の自由な生き方の多様性をそのまま肯定する思想として読むことはできません。また、彼の著作には、古代ギリシャの身分制度や男女の役割について、現代の平等観とは相容れない見解もあります。その歴史的な制約は、無視すべきではないでしょう。
幸福には、外的な条件も必要になる
もう一つ、アリストテレスの幸福論で興味深いのは、外的な条件を軽視していないことです。彼は、友情や財産、健康などが、善い活動を行うための条件になることを認めています。
例えば、経済的な不安が大きく、生活を維持することだけで精いっぱいだったとします。そのような状態では、自分が大切にしたい活動に十分な時間や機会を使えないかもしれません。健康を損なっていれば、やりたいことがあっても実行できない可能性があります。大切な人との関係が失われることによって、人生のあり方が大きく変わることもあるでしょう。
つまり、優れた人格や強い意志があれば、どのような状況でも幸福に生きられるという単純な話ではないのです。これは、現代の働き方を考えるうえでも重要な視点だと思います。自分の幸福は自分でつくるべきだと言うことはできます。しかし、その人が幸福を追求するために必要な条件を、すべて自力で用意できるわけではありません。
本人が満足していれば、それで幸福なのか
ここまでの議論から、幸福は収入や役職などの外的な成功だけで測れるものではないと考えてきました。では、本人が満足しているかどうかを基準にすればよいのでしょうか。
現代の幸福論でも、この問題は議論されています。例えば、幸福を快い経験によって説明する立場があります。自分が望んだことを実現できることに注目する立場もあります。一方で、友情や知識、健康など、本人が望んでいるかどうかとは別に、人生にとって価値があるものを重視する立場もあります。それぞれに説得力がありますが、同時に難しい問題もあります。
本人の満足だけでは見えないこと
例えば、ある企業では、昇進するために長時間働くことが当然とされています。重要な仕事は、遅い時間まで対応できる社員に集中しています。その結果、社員の多くが「成長したいなら長時間働くしかない」と考えているとします。
ある社員に話を聞くと、「今の働き方を自分で選んでいる」と答えました。本人がそう考えていることは、尊重すべきです。しかし、それだけで、その人が十分な選択肢を持っていると判断できるのでしょうか。もし勤務時間を抑えることで、重要な仕事や昇進の機会を失うのであれば、実際に選べる働き方は限られているかもしれません。
本人の意思があることと、その意思を自由に形成し、実行できる条件があることは、同じではないのです。
もちろん、長時間働くことを望む人が、必ず周囲からの圧力によってそう考えているとも限りません。仕事に深い充実を感じ、自分の意思で時間を使っている場合もあるでしょう。だからこそ、本人の希望を否定するのではなく、その希望がどのような環境の中で形成され、実現されているのかを考える必要があると思います。
センのケイパビリティ・アプローチ
この問題を考えるうえで参考になるのが、アマルティア・センらが発展させてきた「ケイパビリティ・アプローチ」です。この考え方では、本人が実際に何をしているのかだけでなく、どのような行動や生き方を選べるのかという、実質的な機会を重視します。
例えば、二人の社員が同じ時間だけ働いているとします。一人は、ほかの選択肢も十分にある中で、その働き方を選んでいます。もう一人は、異なる働き方を選ぶと重要な仕事や収入を失うため、事実上その働き方しか選べません。外から見ると、二人の働き方は同じかもしれません。しかし、実際に持っている選択肢は異なります。ケイパビリティ・アプローチは、この違いを考える手がかりになります。
ただし、これはアリストテレスの幸福論と完全に同じ理論ではありません。センらの議論は、人々が実際に持つ機会や自由を、福祉や社会制度の評価において重視する現代的な枠組みです。古代の徳倫理学と共通する問題意識を見いだせるとしても、両者の目的や理論的な前提を混同するべきではありません。
それでも、幸福を本人の気分や達成した結果だけで評価するのではなく、選ぶことのできる人生の幅に目を向けるという発想は、働き方を考えるうえで重要だと思います。
幸福を選ぶ自由に、企業はどこまで責任を持つのか
ここまで考えてくると、幸福の問題は、個人の人生観だけでは完結しなくなります。どのような人生を望むかは、本人が決めるべきことです。しかし、何を実際に選べるかは、組織の制度や慣行にも影響されます。
例えば、企業が二つのキャリアコースを設けたとします。一つは、高い成長と責任を目指すコース。もう一つは、柔軟な働き方を重視するコースです。一見すると、社員が自分に合う働き方を選べる、よい制度に見えます。しかし、その制度があるだけで、自由に選べるようになったと言えるのでしょうか。
形式的な選択肢と、実質的な選択肢
もし、柔軟な働き方を選んだ社員が、重要なプロジェクトから継続的に外されてしまうとしたらどうでしょうか。昇進や報酬の機会も大きく制限されるかもしれません。その場合、制度上は二つの選択肢が存在していても、実際には高い成長を目指すコースを選ばざるを得ないと感じる人がいるかもしれません。
もちろん、仕事の内容や成果への責任によって、報酬や役割に違いが生じること自体が、すべて不公平というわけではありません。重要なのは、その違いが何を根拠に生まれているのかという点です。実際の成果や能力、職務上の責任に基づいているのか。それとも、長い時間働けること自体が、評価される条件になっているのか。この違いを確かめる必要があります。
また、昇進の機会だけではありません。どのような経験を得られるのか。誰と仕事ができるのか。新しい領域に挑戦する機会があるのか。こうした条件も、将来のキャリアの可能性に影響します。制度として選択肢を用意することと、実質的に選べる条件を整えることは、別の仕事なのです。
制度上の自由は、
実質的な自由と同じだろうか
形式的な選択肢|2つのキャリアコースから選べる
コースA高い挑戦・責任
- 重要案件への参加
- 昇進・報酬の機会
- 長い勤務時間が期待される
コースB柔軟な働き方
- 重要案件から外れやすい
- 昇進・報酬の機会が限定的
- 勤務時間を調整しやすい
本当に自由に選べるかを確認する
- 経験重要な経験を得られるか
- 評価評価・昇進に不合理な差がないか
- 健康・生活健康や生活を守れるか
- やり直し選択を変更する機会があるか
自由は、選択肢の数だけでは決まらない。
その選択肢を、不合理な不利益を恐れずに選べる条件が必要になる。
※センらのケイパビリティ・アプローチを参考に、働き方の制度へ応用した独自の図解です。キャリアコースと待遇の関係は仮想例です。
経営者の幸福観を、社員に押しつけていないか
もう一つ考えたいのは、経営者や管理職自身の価値観についてです。仕事に強いやりがいを感じ、自分の時間の多くを仕事に使う経営者もいるでしょう。私は、そのような生き方自体を否定したいわけではありません。むしろ、自分が大切だと思うことに熱中できるのは、幸福なことかもしれません。
ただし、その価値観を社員にも当然のように求めることには、慎重であるべきだと思います。仕事以外の時間を大切にする人もいます。家庭や友人との関係を重視する人もいれば、仕事と直接関係しない学びや活動に価値を感じる人もいるでしょう。
また、人生の段階によって、大切にしたいものが変わる場合もあります。数年前は仕事を最優先にしていた人が、現在は健康や生活を重視しているかもしれません。反対に、生活上の事情が変わり、新しい挑戦に時間を使いたいと考える人もいるでしょう。幸福についての考え方は、人によって違い、同じ人でも時間とともに変わることがあります。それを、企業が一つの理想像に固定してしまうことには問題があると思います。
企業は、社員の幸福を定義するべきなのか
一方で、社員の幸福を企業が勝手に決めてはいけないからといって、何も考えなくてよいわけではありません。
本人が望んでいるなら、どれだけ長く働いてもよいのでしょうか。
健康を損なう可能性がある状況でも、本人の意思を尊重するだけで十分なのでしょうか。
社員が不利益を恐れて、自分の希望を表明できない環境であれば、どうでしょうか。
こうした問題には、組織として対応する必要があると思います。ここで私が区別したいのは、個人の幸福を定義することと、幸福を追求するための条件を整えることです。企業が社員一人ひとりに対して、何を幸福と感じるべきかを決める必要はありません。しかし、次のような条件については、企業として考える必要があるでしょう。
幸福を定義することと、
幸福を選べる条件を整えること
企業が決めなくてよいこと一人ひとりの幸福
何を幸福と感じるべきかを、企業が一つの理想像に固定しない
企業として考える必要があること幸福を追求するための条件
- 健康や安全を守ること
- 公正に評価すること
- 異なる働き方を選んでも、不合理な不利益を受けないようにすること
- 意見を伝え、制度に疑問を申し立てる機会を用意すること
※本文の議論をもとに整理した独自の図です。
「まず調査する」だけでは、十分ではない
では、実際に組織の働き方を見直すとしたら、どこから始めればよいのでしょうか。例えば、長時間労働を前提とする働き方に問題があるのではないかと感じたとします。しかし、社員自身はそれを問題だと感じていないかもしれません。実際には、仕事の任され方や評価制度に不満があるのかもしれません。あるいは、働く時間ではなく、将来のキャリアが見通せないことに不安を持っている可能性もあります。
この場合、最初から解決策を決めてしまうのではなく、何が問題なのかを調査することには意味があります。ただし、調査すること自体を、正しい判断と考えてはいけないのだと思います。
調査には、調査する側の前提が含まれる
例えば、最初から複数のキャリアコースを設けたいと思っていたとします。そのうえで社員への調査を実施すれば、回答の集め方や質問内容が、無意識のうちにその制度を正当化する方向へ偏る可能性があります。「柔軟な働き方を希望しますか」と尋ねるだけでは、社員が本当に解決したい問題は見えてこないかもしれません。
重要な仕事を任される機会について不満があるのか。
評価基準が不透明だと感じているのか。
業務量が特定の人に偏っているのか。
それとも、本人は現状に満足しているのか。
複数の可能性を考えたうえで、調査の内容を設計する必要があります。また、社員の回答だけでなく、実際の働き方や評価、案件の配分などのデータを確認することにも意味があるでしょう。本人の意識と、組織の制度がどのように機能しているかは、必ずしも一致しないからです。
調査結果を待たずに守るべきこともある
一方で、調査を進めることと、必要な保護を行うことは、分けて考えなければなりません。例えば、社員の健康や安全に深刻な問題が生じているとしたらどうでしょうか。法令に抵触する労働環境や、重大な不利益が疑われる状況であれば、制度の見直しに必要な調査が終わるまで、何もしないという判断は適切ではないかもしれません。問題の原因を調べることと、最低限守るべき条件を確保することは、並行して進める必要があります。
私は、この違いが重要だと感じています。十分な情報がないまま、新しい制度を導入してしまうことにも問題があります。しかし、すべてを理解するまで何も変えないという判断にも、リスクがあります。
ここでも、アリストテレスの実践知という考え方が参考になるのかもしれません。一般的な原則を知っているだけでは、具体的な状況で何をするべきかが決まらない。何を確かめる必要があり、どのような行動を今すぐ取るべきなのか。そうした判断には、状況の理解と、何を守るべきかという価値判断の両方が必要になるのでしょう。
幸福を支えるのは、優れた経営者なのか、制度なのか
ここまでの議論には、もう一つ大切な反論があると思います。アリストテレスの徳倫理学は、優れた人格や実践知を重視します。しかし、社員の幸福や権利を、経営者や管理職の人格に委ねてよいのでしょうか。
例えば、ある経営者が非常に思慮深く、社員の状況を理解しながら柔軟に判断していたとします。その人が経営している間は、組織がうまく機能するかもしれません。しかし、次の経営者が同じように判断できるとは限りません。
また、思慮深い経営者であっても、すべての問題に気づけるわけではないでしょう。立場の違いによって、見えない問題があるかもしれません。自分自身の価値観を、無意識のうちにほかの人へ押しつけてしまう可能性もあります。だからこそ、組織を個人の善意や人格だけで支えることには限界があると思います。
よい制度は、よい人だけを前提にしない
評価の基準や仕事の配分を確かめる仕組みは、経営者や管理職が善意を持っているかどうかにかかわらず、組織をより公正に運営するための支えになります。もちろん、制度を整えるだけで、すべての問題がなくなるわけではありません。
人の判断と制度は、
互いの限界を補い合う
People人の判断
想定していなかった状況に、具体的な事情を踏まえて対応する
偏ったり誤ったりする可能性がある。次の経営者が同じように判断できるとは限らない。
Systems制度
- 評価の基準を明確にする
- 重要な仕事の配分を確認する
- 異なる働き方を選んだ人が、不合理な不利益を受けていないか調べる
- 安心して意見を伝えられる方法を用意する
どれほど詳細なルールを用意しても、想定していなかった状況は起こる。
どちらか一方だけが必要、
という関係ではない。
制度だけでは対応できない状況を、人の判断が補う。人の判断が偏ったり誤ったりする可能性を、制度が補う。
※本文の議論をもとに整理した独自の図です。
古代の幸福論を、現代にそのまま当てはめてよいのか
ここまで、アリストテレスの思想を、現代の働き方や組織に接続してきました。しかし、古代ギリシャで生きた彼の幸福論を、現代の企業にそのまま当てはめることはできません。
アリストテレスの時代には、市民として認められる人々の範囲が限られていました。彼の政治思想にも、奴隷制や男女の役割について、現代の人権や平等の考え方とは相容れない部分があります。そのため、アリストテレスが論じた善い人生を、現代のすべての人に等しく開かれた理想としてそのまま受け入れるべきではありません。
また、彼の幸福論の中心にある、人間に固有の働きを理性に求める議論自体にも、哲学的な反論があります。どのような活動が人間にとって本質的なのか。その本質から、どのように善い生き方を導くことができるのか。こうした点について、現代の哲学者の間でも意見は一致していません。
それでも、古典を学ぶ意味はあると思います。すべての主張に同意する必要はありません。むしろ、現代の考え方との違いも含めて検討することで、普段は当然だと思っている価値観を、別の角度から考えられるようになるからです。
今回であれば、幸福を収入や地位、本人の満足だけで測ろうとする考え方に対して、別の問いを持つことができました。その一方で、幸福を誰かが客観的に決めようとすることにも、慎重であるべきだと感じました。
古典を学ぶことは、古典に答えを求めることだけではないのでしょう。古典が提示した問題を受け取りながら、自分たちの時代に何を考える必要があるのかを見つけることにも、意味があるのだと思います。
おわりに|幸福を決めるより、選べる条件をつくる
仕事で成功することは、人生に大きな充実をもたらすかもしれません。自分の能力を発揮し、他者と協力し、新しい価値を生み出すことには、仕事ならではの喜びがあります。その意味で、仕事は幸福を構成する重要な要素になり得ると思います。
しかし、仕事で成功することが、そのまま幸福に生きることを意味するわけではありません。収入や役職、社会的な評価が高くても、人生のすべてが充実しているとは限りません。反対に、仕事で大きな成果を追求することを、自分にとって最も大切な活動だと考える人もいるでしょう。どのような人生を望むのかは、人によって違います。
今回、アリストテレスの幸福論から学んだのは、幸福を単に楽しい気分や外的な成功として考えるのではなく、人生全体のあり方として考える視点でした。また、徳や実践知の議論からは、善いことを知っているだけでなく、実際に善く判断し、行動することの重要性を考えました。
しかし、働き方の問題に接続してみると、個人の人格や選択だけでは説明できないことも見えてきました。自由に働き方を選べるとされていても、その選択によって重要な仕事や将来の機会を失うのであれば、本当に自由だと言えるのでしょうか。本人が望んでいると言っていても、その希望が組織の評価や期待によって形づくられている場合はないでしょうか。
企業が社員の幸福を一律に決めるべきではないと思います。ただし、そのことと、企業が社員の幸福について何も責任を持たないことは違います。健康や安全を守ること。異なる価値観を持つ人が、不合理な不利益を受けずに働けること。自分が望む生き方を選ぶための機会が、実質的に用意されていること。そうした条件を整えることには、組織の責任があるのではないでしょうか。
もちろん、何が公平な機会なのかを決めることも、簡単ではありません。すべての人が同じ機会を得るべきなのか。異なる事情を持つ人々に、どのような配慮が必要なのか。そして、個人の自由と、組織としての成果をどう両立させるのか。考えるべきことは、まだ残っています。
それでも、今回の学習を通して、自分が考えたいことは少し明確になりました。
一人ひとりの幸福を、組織が決めるのではなく、一人ひとりが幸福を選べる条件を整えること。
そのことを、これからも考えていきたいと思います。そして最後に、もう一つの問いが残ります。
選択肢が用意されていても、人によって与えられる機会が違うとき、その組織を公平だと呼べるのでしょうか。
この問いは、幸福の問題から、正義や公正の問題へとつながっていきます。
参考文献・出典
現代の働き方やキャリア制度、広告判断に関する事例は、古典の内容を理解するための仮想例です。アリストテレス本人の議論と、現代の組織に対する筆者の考察は区別して記述しています。
- Aristotle, Nicomachean Ethics(『ニコマコス倫理学』)。特に第1巻(幸福)、第2巻(徳と中庸)、第6巻(実践知)、第10巻(観想的生活)。原典英訳:Internet Classics Archive(新しいタブで開きます)
- Kraut, R. "Aristotle's Ethics." Stanford Encyclopedia of Philosophy(2026年8月11日改訂)。アリストテレスの幸福論、徳、中庸、実践知、外的な善に関する学術解説。Stanford Encyclopedia of Philosophy(新しいタブで開きます)
- Crisp, R. "Well-Being." Stanford Encyclopedia of Philosophy。快楽説、欲求充足説、客観的リスト説など、現代の幸福論に関する学術解説。Stanford Encyclopedia of Philosophy(新しいタブで開きます)
- Robeyns, I. "The Capability Approach." Stanford Encyclopedia of Philosophy。センらのケイパビリティ・アプローチ、実質的な自由、達成された活動や状態と機会の違いについての解説。Stanford Encyclopedia of Philosophy(新しいタブで開きます)
- Ryff, C. D. (1989). Beyond Ponce de Leon and Life Satisfaction: New Directions in Quest of Successful Ageing(新しいタブで開きます). International Journal of Behavioral Development, 12(1), 35–55. 人生の目的、人格的成長、自律性など、多面的な心理的ウェルビーイングを扱う研究。
- Aristotle, Nicomachean Ethics, Book II. 中庸の考え方や、算術的な平均との違いについての原典。原典英訳:Perseus Digital Library(新しいタブで開きます)