ある企業の社員10人のうち、9人が特定の働き方を支持していたとします。残りの1人だけが反対しています。そこで、多数決を行い、9対1で制度を決定しました。この制度が、勤務日の一部を共通化するというものであれば、業務上の必要性に応じて正当化される場合もあるでしょう。
しかし、仮に、多数派と異なる意見を述べた社員が、会議で発言する権利を失うような制度だったとしたらどうでしょうか。9人が賛成したからといって、それを正当化できるとは思えません。
多数派が支持していれば、何を決めてもよいのでしょうか。
「多数決で決まったことは、正しいことなのか?」では、コンドルセやアローの議論から、多数決の結果が必ずしも正しさを示すとは限らないことを考えました。しかし、もう一つ別の問題があります。それは、仮に多数派の意思を正確に把握できたとしても、その意思に従って何を決めてもよいのかということです。
社会と制度多数決で決まったことは、正しいことなのか?コンドルセとアローから、多数決と集団の意思決定を考える。
今回は、19世紀の政治思想家トクヴィルと、法学者キャス・サンスティーンの議論を手がかりに、多数派の支持と、決定の正当性について考えてみたいと思います。なお、本文中の企業の話は、論点を説明するための仮想例です。
トクヴィルが警戒した「多数派の専制」
この問題を考えるうえで重要なのが、アレクシ・ド・トクヴィル(1805〜1859)の思想です。トクヴィルは、1835年と1840年に『アメリカのデモクラシー』を刊行しました。アメリカ社会の制度や習慣を観察しながら、民主的な社会が持つ可能性と危険について論じています。そこで重要な問題として扱われたのが、「多数派の専制」です。
民主的な社会では、多数派の意思が政治に大きな影響を持ちます。しかし、多数派が強い権力を持つことによって、少数派の権利や自由が脅かされる可能性もあります。例えば、ある意見を持つ人々が、法律によって発言を禁止されなくても、社会的な圧力によって発言しにくくなる場合があるでしょう。
トクヴィルは、多数派が政治制度だけでなく、社会の思想や言論に与える力にも注目しました。民主的に決定されたことだからといって、その決定が常に正当であるとは限らない。ここに、彼の議論の重要な問題意識があります。
もちろん、企業の会議と、国家の民主的な統治は同じではありません。法的な権利や権力の性質も異なります。そのため、トクヴィルの多数派の専制を、そのまま企業の会議へ当てはめるべきではないでしょう。それでも、多数派が支持しているという事実と、その判断が少数派の権利を不当に損なっていないかという問いを区別することには、意味があると思います。
多数派も、少数派も、間違うことがある
ただし、多数派の判断が間違っている可能性があるからといって、少数派の判断が常に正しいわけではありません。少数派が専門的な知識を持っている場合もあれば、単に自分たちの利益を守ろうとしている場合もあるでしょう。
重要なのは、意見を支持する人数だけで、その内容の正しさや正当性を決めつけないことです。多数派の判断にも根拠が必要です。少数派の意見についても、その内容や理由を検討する必要があります。そして、どれほど多数の人が支持していても、侵害してはならない権利や守るべき原則があるかどうかを考える必要があるのです。
会議で全員が賛成したら、よい判断なのか
では、全員が納得するまで議論すればよいのでしょうか。合意に至るまで意見を交わすことには、意味があります。しかし、全員が賛成している状態も、必ずしもよい判断を意味するわけではありません。
例えば、ある企業の新規事業について、会議の参加者全員が前向きだったとします。しかし、後から確認すると、全員が同じ市場調査を参照していました。その市場調査では、成長性の高い顧客層ばかりが取り上げられ、参入に失敗した企業については十分に調べられていませんでした。誰も意図的に情報を隠していたわけではありません。ただ、参加者が同じ情報を信じ、似た考え方を持っていたため、別の可能性が十分に検討されなかったのです。
集団で議論すると、意見が強まることがある
法学者キャス・サンスティーンは、2002年の論文『The Law of Group Polarization』などで、集団内の議論によって、もともとの傾向がさらに強まる現象を論じています。例えば、参加者の多くがある政策に好意的だった場合、議論を経て、その政策をさらに強く支持するようになることがあります。一方で、否定的な人々が集まると、否定的な立場が強まる場合もあります。こうした現象は、集団極性化と呼ばれます。
ただし、議論をすれば必ず意見が極端になるわけではありません。異なる立場の人と話すことによって、考えを修正する場合もあります。そのため、「会議では意見交換をしない方がよい」と結論づけるのは適切ではありません。重要なのは、どのような情報を持つ人が参加し、どのように意見を交わしているのかという条件です。
異なる意見を、実際に出せるのか
私は、会議で全員が賛成したとき、その合意がどのように生まれたのかも気にしたいと思います。
十分な調査や議論を経て、意見が一致したのでしょうか。
それとも、最初から反対意見を出しにくい雰囲気があったのでしょうか。
経営者や管理職が先に結論を示したことで、ほかの人がそれに合わせた可能性はないでしょうか。
全員が賛成しているという結果だけでは、その違いはわかりません。多様な意見が存在することと、それらの意見を実際に表明できることも、同じではないのです。そして、異なる意見が出てきたとき、それを単なる抵抗や批判として扱わず、判断の根拠を見直す機会にできるかどうか。そこにも、集団で考える意味があると思います。
すべての意思決定を、多数決にする必要はあるのか
そもそも何を多数決で決めるべきなのかという問題もあります。例えば、Webサイトのセキュリティに重大な問題が見つかり、技術的な検証によって、特定の対応が必要だと判断されたとします。しかし、会議の参加者の多くが、その対応を面倒だと感じて反対しました。この場合、多数決で反対が多かったからといって、必要なセキュリティ対策を実施しなくてよいとは限りません。専門的な知識や、守るべき法的・契約上の責任が関わるからです。
一方で、組織全体の価値観や、複数の利害関係者に影響する制度については、当事者の意見を十分に聞く必要があるでしょう。つまり、すべての問題に同じ意思決定方法を適用する必要はないのです。
事実を確かめる判断と、
何を重視するかを決める判断
Fact|正解を探すセキュリティの問題
「このシステムには、重大なセキュリティ上の問題が存在するか」
専門的な調査や技術的な検証によって、事実を明らかにする
Value|何を重視するか提供する価値
「この企業は、今後どのような価値を顧客に提供するべきか」
顧客や市場の情報に加えて、経営者や社員が何を重視するのかという価値判断が関わる
専門家は判断材料を提供できる。
しかし、目的の優先順位までは決まらない。
※筆者による整理です。
だからといって、専門知識のある人がすべてを決めるべきだとも思いません。この違いを理解したうえで、誰が判断し、誰の意見を聞き、どのような責任を負うのかを設計する必要があるのでしょう。
参加する人の範囲も、考える必要がある
例えば、ある企業が社内の働き方を変更するとします。管理職だけで多数決を行えば、管理職の間では合意が得られるかもしれません。しかし、その制度によって影響を受ける社員の意見が反映されていなければ、十分な検討が行われたと言えるでしょうか。反対に、すべての社員があらゆる経営判断に直接投票することが、常に望ましいとも限りません。
誰が決定するのか。
誰に意見を聞くのか。
誰がその結果に責任を持つのか。
そして、決定によって大きな不利益を受ける人がいる場合、その人の立場はどのように扱われるのか。
集団の意思決定は、投票ボタンを押す前から始まっているのです。
納得できる決定とは、全員が賛成した決定なのか
例えば、ある会議で十分な議論を行った結果、6対4でA案が選ばれたとします。反対した4人は、最後までB案の方がよいと考えています。この場合、会議は失敗だったのでしょうか。
私は、必ずしもそうではないと思います。意見が違うままでも、相手が何を理由にその案を支持しているのかを理解できる場合があります。また、自分が反対する理由についても、十分に検討してもらえたと感じるかもしれません。そのうえで、事前に定められた正当な手続きによって、組織として一つの方針を選ぶことはできます。ここで大切なのは、決定したことと、永久に正しいと認められたことを区別することだと思います。
決定した後にも、異論を残せるか
一度決めたことに対して、いつまでも同じ議論を繰り返せば、組織の実行力が損なわれる可能性はあります。しかし、反対意見の中に、今後の事業運営で確認すべきリスクが含まれている場合もあるでしょう。例えば、新規事業の会議で「この価格では継続利用されないのではないか」という懸念があったなら、その懸念を無視して事業を始めるのではなく、継続率について一定の検証基準を設けることができます。また、「顧客の需要が十分ではない」という意見があれば、初期の販売結果をもとに再検討する条件を設定できるかもしれません。
このように考えると、少数意見は、多数決に負けた瞬間に無意味になるわけではありません。実行後の検証や判断の更新に役立つ可能性があります。今回学んだことを踏まえて、集団の意思決定を行うときには、次のことを考えたいと思います。
集団で意思決定するときに
確認したい五つのこと
すべての会議で、
五つを詳細に確認する必要はない。
日常的な小さな判断にまで厳密な手続きを求めれば、意思決定が遅くなる。事業の方向性や社員の働き方など、影響の大きい決定で時間をかける。
※コンドルセやアロー、トクヴィルが共同で提唱した意思決定モデルではなく、それぞれの議論を学んだうえで筆者が整理した観点です。
おわりに|多数派の支持と、決定の正当性を区別する
トクヴィルは、民主的な社会であっても、多数派の権力が少数派の自由を脅かす可能性を指摘しました。そして集団極性化の議論は、全員が同じ方向を向いていることが、必ずしもよい判断を意味しないことを示しています。どちらも、多数派の支持を得ることと、正しく正当な判断を下すことを単純に同一視できないと考える手がかりになります。
私は、だからといって、多数決を使うべきではないとは思いません。全員が賛成する必要はないのかもしれません。しかし、全員が同じ情報に触れ、自分の意見を述べる機会があり、反対する理由も適切に検討されたうえで結論が出される。そのような過程には、単に票を数えること以上の意味があると思います。
こうしたことを考えると、多数決は意思決定の終点ではなく、そこに至る議論と、その後の検証の間にある一つの手続きなのだと感じます。
そして、最後に一つの問いが残ります。
私たちは、会議で多数の賛成を得ることと、その判断が本当に妥当かを確かめることを、混同していないでしょうか。
参考文献・出典
以下は、本文中の学術的な説明に関する主な参照文献です。企業の会議や社内制度への応用は、筆者による考察です。また、政治制度の正当性と、企業の意思決定のあり方は、異なる問題として扱っています。
- Tocqueville, A. de (1835/1840). De la démocratie en Amérique(『アメリカのデモクラシー』)。特に第1巻の多数派の専制、思想や言論に及ぼす多数派の力に関する箇所。英訳・批判校訂版:Online Library of Liberty(新しいタブで開きます)
- Sunstein, C. R. (2002). The Law of Group Polarization(新しいタブで開きます). The Journal of Political Philosophy, 10(2), 175–195. 集団内の議論によって意見が極性化する条件や影響についての論文。



